【無料掲載】日々雑感ー懸命に生きるー森脇良太

想いの発露に偽りなし

森脇は小学生時代にいじめに遭っている。だから実家近くではなく、わざわざ車で1時間も掛かるサンフレッチェ広島ジュニアユースの尾道地域クラブ『びんご』に在籍してサッカーを続けた。だから、当時毎日車で送り迎えをしてくれた両親に感謝している。選択は間違っていなかった。その後広島ユースへ昇格し、2004年にトップチームに2種登録、2005シーズンにはトップチームへと昇格した。しかし当時右サイドバックでプレーしていた彼の萌芽は見られず、2006シーズン、2007シーズンはレンタル移籍先のJ2・愛媛で過ごした。

2007シーズン途中に、広島の指揮を執っていたペトロヴィッチ監督が愛媛の視察に訪れた。所属元の監督に良いプレーを見せたい森脇の思いが空回りする。右サイドを切り裂いて上げたクロスがことごとくゴールラインを割った。仲間から『お前、なんちゅうプレーをしとんじゃい!』と叱責を受けた。それを見たペトロヴィッチ監督が、広島のクラブスタッフにこう聞いたという。

「森脇は来季、どこでプレーするんだ?」

スタッフが、『一応来季も愛媛でプレーさせるつもりです』と答えると、監督は「いや、今すぐサンフレッチェへ戻してくれ」と返した。その後、2008シーズンに広島へレンタルバックしてからの森脇の活躍は周知の通りだ。

森脇は言う。

「ミシャの下で右ストッパーのポジションを務めてみて、このポジションは自分の天職ではないかと思えるようになった。ミシャの戦術におけるストッパーは攻守両面への関与を求められる。もちろん無闇な攻め上がりは駄目でバランスを崩してはならないけど、リスクを冒して果敢に攻める点は許された。僕の一番の持ち味だと思っている前線へのクサビパスでミスをしても、監督から怒られることはなかった。僕には何回も人生のターニングポイントがあった。中でも、ミシャとの出会いは自分の人生観、サッカー観を変えてくれたかけがえのないもの。ミシャに出会わなければ今の僕はいない。そう思っているんです」

森脇の父親は野球好きで自らもプレーしていたという。だから息子にも野球を嗜んでほしかったが、次男である森脇はサッカーを選択した。すると父親はサッカーの教則本を買ってきて知識を得て、長男と次男の3人で毎日自主練習を繰り返した。森脇は今、実の父親とペトロヴィッチ監督を重ね合わせている。

浦和へ完全移籍した初年度の2013シーズンJリーグ第4節・ジュビロ磐田戦で移籍後初ゴールを挙げると、森脇は拳を天に掲げてバタバタと駆け出し、メインスタンドに向かって何かを叫んだ。当時同僚だった歳下の原口元気(ヘルタ・ベルリン/ドイツ)からは「小学生みたいな喜び方じゃん」と笑われたが、「喜び方に子どもも大人もないんだよ!」と言った。その時に森脇が絶叫して連呼していたのは、「ミシャ」という言葉だった。

「なんで監督の名前を叫んだのかは自分でも分からない(笑)。でも、その時は何故か『ミシャ!』って叫びたくなってしまったんですよね」

選手は所属するクラブのため、チームのため、応援し支えるサポーターのために心血を注ぐ。森脇はその大前提を崩してはいない。それでも恩師への感情を露わにするのは、彼の心根に一点の曇もないからだ。

YBCルヴァンカップ決勝。ガンバ大阪との死闘を制した瞬間、指揮官と抱き合ってピッチに突っ伏した森脇は、嗚咽を漏らしながら「ミシャ、ミシャ」と叫んでいた。

「ようやく、ようやくですよ。これまでずっと素晴らしいサッカーを実践して僕らを指導して下さった監督に、ようやくひとつだけ恩返しができた。それを思ったら泣けてきて……。これでようやく次へ向かえる。まだリーグ戦も天皇杯も、クラブワールドカップも残っていますよね。監督もチームも選手も殻を破れたと思うんです。だから、次も全力で闘う。もう、そう誓っちゃいました、僕(笑)」

笑顔の裏には素顔がある。育ての親に報いて、サポーターに報いて、森脇良太は少しだけ軽妙に、いつだって懸命に生きる。

 

 

 

 

 

 

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