仙蹴塵記

【ホームタウンから】13年が経った3月11日の思い

2011311日の東日本大震災発生から13年が経った。2024年の同日に、ベガルタ仙台は被災地のクラブとして犠牲になった方々を悼み黙祷を捧げた。

東日本大震災発生時刻の1446分。仙台市青葉区の勾当台公園に、梁勇基クラブコーディネーターと富田晋伍クラブコミュニケーターの姿があった。二人はこの日、クラブを代表して同所にて献花。その後、黙祷を捧げた。

両氏とも、2011年当時は仙台の一員としてプレー。被災直後は練習もままならない状況にあったが、やがて復興支援活動にも取り組みながら練習を再開し、この年はJ1リーグで4位の成績をおさめた。翌年には準優勝。当時指揮していた手倉森誠監督(現パトゥム・ユナイテッド監督)の「被災地の希望の星になろう」との呼びかけとともに、傷ついたホームタウンとともに立ち上がる姿をプレーによって表していた。

梁氏は「いろいろな不安があった中でも、我々選手は『やるしかない』という思いで覚悟を持って、クラブとしても選手一人ひとり本当に持って戦ったシーズンでした。そういう姿勢があの結果に繋がったと思います」と当時を振り返るとともに、昨季をもって選手を引退した後の自身について「(震災の記憶を)風化させないこと。このクラブで戦う以上はそういう責任とかいろいろなものを背負って戦ってほしいと、我々も伝えていきたい」とその果たすべき役割を胸に留める。

富田氏は「(13年を)あっという間に感じる方もいますし、『まだまだ13年間』かもしれないし、いろいろな感情もあるなかで、この3.11というのは決して忘れられない日、忘れてはいけない日だと思います」と心境を口にした。昨季からクラブコミュニケーターとして活動する中では、震災発生後に生まれて当時の経験がない子供達に“防災サッカー教室”を通じて教えることもある。今季始動日の被災地訪問では、新加入選手を加えたチームに、自身の被災経験を話して聞かせた。「震災が起きたときにどういう行動をしたらいいかなど、サッカーを通じ伝える活動をさせてもらっています。もっといろいろな活動をしていきたい」。彼もまた、今の立場で自身にできることに取り組む。

そして今のチームは、彼らがたくましくプレーする姿を見て育った子供達がプロ選手に成長し、仲間たちとともに新たな役割を担っている。

この日のトップチームの練習は、戦術練習に参加したユース選手達とともに、整列して黙祷を捧げることから始まった。前日の10日には、明治安田J2第3節・水戸戦を“復興応援試合”として開催し、勝利。試合前に、森山佳郎監督は2011423日、リーグ戦再開試合となったJ1第7節・川崎Fvs.仙台の映像をミーティングで流し、この地に在るクラブの使命についてあらためてチームに説いたという。この試合で決勝点を決めた相良竜之介は、加入2年目ながら「気持ちもたかぶりましたし、いろいろな人たちを感動させたいと思って試合に臨んだので、それが結果に出て良かった」と話している。

アシストした郷家友太(宮城県多賀城市出身)、先発フル出場した工藤蒼生(仙台市出身)、途中出場の菅原龍之助(石巻市出身)、ベンチの小畑裕馬(登米市出身)といった仙台アカデミー出身の選手達は、梁・富田両氏をはじめとした当時のチームの戦いぶりを間近で見て、その姿に勇気づけられた。仙台市出身で加入3年目の遠藤康のように、当時から今に至るまで“東北人魂を持つJ選手の会”など活動を続ける者もいる。

工藤蒼は水戸戦後に「震災の時は、自分はスタジアムの方で勇気や元気を与えられた側でした。今回はしっかり勝つことでファン、サポーターのみなさんで、震災にいろいろな思いがある人たちに勇気や元気を届けられたのかなと思います」と、選手の立場になった今、自身が果たしたことについて語った。菅原は今後に向けて「子供ながらに僕も将来はああいう選手たちのように躍動感のあるサッカーをしたいとか、ゴールドのエンブレムをつけてサッカーをしたいと思っていたので、そういうきっかけを今度は僕が届けられれば」と意気込んでいる。12日には福島県いわき市出身の松井蓮之が川崎Fから期限付き移籍で加わった。新しい仲間とともに、2024シーズンのチームも2011年からの記憶や使命のバトンを繋いでいく。

reported by 板垣晴朗

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