【無料掲載】日々雑感−平川忠亮『今のヒラが一番好きだ』

ずっと一緒に歩んでいた

 初めて彼に会ったのは2002年の初冬。当時の浦和レッズは変革を求められていて、元日本代表監督のハンス・オフトを招聘して新たなチーム構築に着手していた。

 当時の浦和には一癖も二癖もある選手が揃っていた。チーム最年長の福田正博は常に仏頂面で、下手な質問をしようなら叱責される勢いで戦々恐々としていたし、悠々自適の山田暢久は何を問うても「うん」とか「そうね」とか、「まあ、いいんじゃない」なんて答えしか返してくれなかった。

 前年の夏からサッカー専門誌の浦和担当を務めていた新参者の僕は、初めての新卒選手との対面を待ち焦がれていた。経験豊富で百戦錬磨な選手たちの取材は高揚感もあったが、一からその成長を見守れるプレーヤーとの出会いが自らの記者人生の糧になると思っていた。そして今、その時の想いが間違っていなかったことを心から実感している。

 この年、浦和に10人もの新卒選手が加入した中で、僕が最初に声を掛けたのは平川忠亮だった。 

 今でも鮮明に覚えている。大卒同期の坪井慶介(山口)が一生懸命ボールを手で集めている横で、彼は気だるそうに佇んでボールを収めるネットの口を広げていた。ただ、見た目の態度とは裏腹に、こちらが「お疲れ様でした」と声を掛けると、「そちらこそ、お疲れ様でした」と優しく丁寧に返してくれた。これまで選手からそんな言葉を掛けられたことなんてなかったから嬉しくなって、「今度、平川選手の話を聞かせてくれませんか?」と聞いたら、「オレなんかでいいんですか? こちらこそ、よろしくお願いします」と言って頭を下げてくれた。

 あれから17年の歳月が過ぎた。当時新卒で加入した選手の中で今も現役は4人。ひとりは藤枝東高から加入して当時まだ無名だったMF長谷部誠(フランクフルト/ドイツ)、もうひとりは全国制覇を果たした国見高校から鳴り物入りで加入したGKの徳重健太(長崎)。そして後に日本代表にまで上り詰めたDFの坪井と、清水商業高校から筑波大を経て浦和の選手になった平川だけだ。

 正直に吐露するが、この年の新卒で一番最初にプロを辞めるのはヒラだと思っていた。負傷がちだったことがそのひとつ。そしてもうひとつの理由は、当時の彼が今ほどにサッカーに対して真摯に向き合っていなかったようにも思ったからだ。そんな印象が変わったのは彼が30歳を過ぎてから。結婚してふたりの子どもに恵まれ、先輩や同年代の仲間が次々にレッズを去り、いつしか周りが自分より年下になったとき、彼の意識は間違いなく変化したように思う。

「もし20代で現役を終えていたら、俺はろくでもない人間になっていたかもしれない。金もなく、街中を彷徨って、堕落していたかもしれない。でも今の俺には浦和レッズというチームがあって、家族が居て、それが俺の人生を変えたと思っている。俺の人間性、人生観は、この浦和レッズというクラブによって築き上げられてきたんだよ。そんなクラブのチームに心血を注ぐのは当然のことだよね」

 彼のことを『ヒラ』とニックネームで呼んだのは相当早い時期だったと思う。たぶん加入して数カ月後だったとも思うが、定かではない。彼はいつでも朗らかで快活で、チームが勝っても負けても、自分のプレーが良くても悪くても、いつだって真摯に向き合ってくれた。嘘偽りのない言葉で、正直に、心をこめて。

 浦和が初めてアジアの頂点に立った2007年。AFCアジア・チャンピオンズリーグの激闘の中で、ヒラの存在は頼もしかった。準決勝第2戦・城南一和との激闘で最後のPKキッカーとしてペナルティスポットの前に立ったのは彼だった。飄々とした表情で仲間の元を離れて歩を進める様が埼玉スタジアムのオーロラビジョンに映し出された時、僕は確かに『勝った!』と思った。

 2011シーズンの第33節。博多のレベルファイブスタジアムで勝利を収めてJ1残留をほぼ決めたとき、彼は僕の肩に手を置いて一言、「やったよ」と言った。それまでは平静を装い、いつだって「大丈夫」と言っていた彼が心底安堵する姿を見て、彼が背負った責任の重さを知った。

 ヒラは恩師にも恵まれていたように思う。特に新人だった自らを厳しく鍛え抜いてくれたオフト、そして最も長くその薫陶を受けたミハイロ・ペトロヴィッチとの出会いは、彼のプロサッカー生活を鮮やかに彩り、今後の人生を照らす眩い光になった。彼がこれだけ長くひとつのクラブで生きてこられた理由は恩師たちの支えと、それに応えた彼自身の努力があったからだ。 

 ヒラはある時期から、かなり早い段階で現役を退くことを考えていた。そして今の彼は指導者への道に関心を抱いている。多くの先達の姿から未来の自分を想像するのに、それほど違和感はなかったのかもしれない。それくらい、彼の周りには聡明で、今後目指すべき指針となる人物たちがいた。

 今季、堀孝史監督体制でスタートしたチームで、ヒラはある決心をしていた。

「今季は難しい時が来るかもしれない。でも、そんな時はオレが堀さんを支えて、選手側から堀さんを代弁するような存在になろうと思っている。選手には選手の言い分があることはわかっているけど、オレのような立場の選手は監督の意図を汲んで、チームのために尽力するのが仕事だと思っている」 

 心を期して臨んだのに、度重なる負傷で戦列を離れざるをえなかったのは断腸の思いだったに違いない。保身など微塵も抱かず、ただチームのために戦いたかった。それができない自分を如何に不甲斐なく思ったことか。

 正直に吐露すれば、僕は20代の頃より今のヒラのプレーの方が好きだ。帯同外になっても鍛錬を怠らず、仲間にフォア・ザ・チームの精神を見せ続けたのはもちろん、年に1回か2回しか訪れないチャンスで、いつも彼は全力でスーパーなプレーを見せてくれた。若い頃はガムシャラだったが、今の彼は時の指揮官の意図を理解し、把握し、今のチームに何が必要なのかを身をもって示してくれた。組織が瓦解しそうになったときには必ず彼がいて、チームと仲間の特長を最大限に引き出してくれた。

 今の浦和は変革の時を迎えている。オズワルド・オリヴェイラ監督の続投が決まり、来季はリーグ奪還へ向けて奮起すべきシーズンになる。プロサッカーチームには新陳代謝が必要で、それはかつてヒラが新人だったときの浦和の状況がまさにそうだった。時代は移り変わる。幾多の歴史を刻みながら、これからも浦和は前へ歩まねばならない。

 遥か遠く。今、この原稿をドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州の小都市、メンヘングラートバッハで書いている。これまでも多くの選手との別れを経験したが、その決断を本人から直接聞いた直後に遠くの景色が霞んで見えたのは初めてだ。ボルシア・パークへ向かうバスに乗ると酒を飲んで上機嫌なサポーターたちに取り囲まれたが、僕の視界は曇ったままだった。試合は4-1でホームチームが大勝して、惨敗したアウェーチームの背番号10、原口元気は怒りをたぎらせて所属チームの体たらくに不満の意を唱えていたーー。

 そうだ、それでいいんだ。現役時代に全身全霊を賭して精一杯戦えれば、それでいい。原口元気の顔を見ながら、じゃあ、ヒラはどうだったのかと考えてみた。

「共に人生を歩んでいる仲間は、どんな時だってかけがえのないもの。今のオレは有り難いことに、辞める時はプロサッカー選手としての限界を迎えている時。だって、オレはすでにやり切ってるんだもん」

『一つの後悔もない』

 J1通算335戦9得点。ヤマザキナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)67戦1得点。天皇杯23戦0得点。ACL24戦0得点。FIFAクラブワールドカップ1戦0得点。獲得タイトル。2003年・ヤマザキナビスコカップ。2005年・天皇杯。2006年Jリーグ。2006年・天皇杯。2007年・AFCアジア・チャンピオンズリーグ。2016年・YBCルヴァンカップ。2017年・AFCアジア・チャンピオンズリーグ。……。

 ヒラ、本当にお疲れ様。あなたはどんな選手よりも長くレッズのために戦い、その魂を焦がし、僕たちにたくさんの夢を見せてくれました。

 ありがとう。本当にありがとう。

 でも、本当に淋しい。淋しすぎて、胸が張り裂けそうです。

(了)

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