【無料記事】レッズランドで目撃した、ある光景にその競技に尽くす者たちの情熱を見た【島崎英純】日々雑感─女子サッカー、その輝かしい未来(2015/7/7)

純然たるプロフェッショナルな姿勢

浦和レッズレディースは2014シーズンのプレナスなでしこリーグのエキサイティングステージで優勝し、2009シーズン以来5年ぶり、Lリーグ時代を含めるとクラブ史上3度目となるリーグ制覇を成し遂げた。

2014年11月24日、浦和駒場スタジアムで開催されたアルビレックス新潟レディース戦。リーグ優勝を懸けた一戦で、チームはホームで勝利を挙げてサポーターとともに歓喜する所存だった。しかしゲームは意に反して劣勢を強いられた末、71分に新潟レディースの大石沙弥香に決勝ゴールを奪われて敗戦を喫した。それでもレッズレディースは2位・日テレ・ベレーザと同勝ち点ながらも得失点差で上回り、エキサイティングステージを6勝2分2敗で終えて戴冠を果たし、浦和駒場スタジアムに集まった多くのサポーターと喜びを分かち合ったのだった。

新潟戦を終え、オフを挟んだ翌々日、私は雑誌取材のため、レッズレディースが日々練習を行うレッズランドへ赴いた。

現在のレッズレディースの選手でプロ契約を結んでいる者はおらず、彼女たちの大半は何らかの職に就いているか、もしくは学生である。したがって通常のトレーニングは仕事や授業が終わった後の夕方以降に実施されている。通常は18時前後にスタートし、全体練習は20時前後に終了、その後各自自主練習を行って21時前後にそれも終了し、選手たちは深夜に帰路へ着く。

新潟戦翌々日はオフ明けだったこともあり、試合に出場した選手たちはダウントレーニングなどの軽いメニューをこなしていた。

その姿を観察していると、キャプテンの後藤三知がFWの吉良知夏になにやら熱心に話しかけている。ジョギングで並走して数分間、時折身振り手振りで何かを言い合っている。後藤と吉良は試合で2トップを組むことが多いため、連係面などのすり合わせでもしているのだろうか。

ただ、今後のチーム日程にカップ戦の皇后杯が待ち受けているとはいえ、シーズンの一区切りである、なでしこリーグ・エキサイティングステージ終了直後に連係確認をする必要性などあるのだろうか。懐疑的にその様子をうかがっていると、後藤は吉良から離れ、今度はボランチの岸川奈津希と同じように話を始めた。今度はその話し声も聞こえる。

「相手がこう出てきた時に、こう対応した方が良いと思うんです。何故ならば、その方がチームとしてバランスが取れると思いますから」

後藤は1990年7月27日生まれ、岸川は1991年4月26日生まれで、後藤は岸川の3歳年上である。しかし後藤は、岸川に対して終始敬語で話していた。理路整然と淀みなく。岸川はそれに対して頷き、時折何かを発しながら話を続けていたが、しばらくすると後藤は彼女から離れ、また別の選手と会話を交わしていた。結局、後藤はその日、新潟戦に出場した全選手とコミュニケーションを取っていた。

吉良にキャプテンとの会話について聞いてみた。

「別に今日に限ったことではなくて、試合の後はよくある話し合いですよ。お互いに良かったところ、悪かったところを話し合って次に生かそうとする会話です。三知はキャプテンとしてチーム全体を俯瞰して見ている部分もあるので、私も参考になる部分が多々あります。また三知と私は前線で2トップを組むことが多いので、日常的にコミュニケーションを取ることで良いプレーに繋げる面もあると思います。だから私は、このような日々の話し合いって、とても良いことだと思うし、自然なことだと思っています。チームの誰もが勝利を目指して戦っているわけですからね」

キャプテンとチームメイトとのディスカッションは和やかな雰囲気に終始するわけでもない。通常練習が終了し、クラブハウスへ戻る帰り道で何やら言い合いになっている声を聞いた。その主は後藤と、昨季限りで現役を引退した堂園彩乃(その後オルカ鴨川FCで復帰)さんだった。

20歳前後の若手選手が多い現在のチーム構成の中で、ふたりは同世代だった。そのふたりの会話は率直に言うと熾烈で、側から見ると喧嘩しているようにしか思えなかった。相変わらず後藤の口調は敬語だが、その言葉には断固たる主張が込められている。かたや堂園さんも一切引かない。あるプレーに対してキャプテンに言及されると、「いや、それは違う」と公然と反論する。お互い一歩も譲らない姿勢に、ふたりのこのチームへの想いが投影されていた。ふたりはどこまでも真摯に、情熱を持って、共に闘い、浦和レッズレディースというクラブを高みに導くために全力を尽くしていた。

堂園さんは2014シーズン限りでの現役引退を決断した。引退を表明したのは年が明けた2015年1月9日だった。チームは結局皇后杯決勝まで勝ち上がり、元旦の2015年1月1日まで活動していたためにこのタイミングでの発表となった。堂園さんは引退の理由について、このように話している。

「小学校5年生から長い間サッカーをやってきて、目標を見失っていた。熱が冷めてしまっていたのを感じたんです。このまま中途半端な気持ちでやるのは嫌だった」

堂園さんはクラブがリーグ優勝を成し遂げたのをひとつの節目とした。しかし彼女はまだ24歳である。まだまだ第一線でプレーできる可能性もあるため、その決断には重みもあった。

2014年11月下旬、レッズランドの脇を流れる荒川河川敷の一角でキャプテンと感情をぶつけ合った時、すでに堂園さんはひとつの決断を下していたのかもしれない。それでも、目標を見据えている間は決して妥協しない。普段から仲良く過ごす盟友の前でも、チームのために志を高く持って主張する。そして友もまた、かけがえのない仲間の意を汲んで、たとえ嫌われ役になろうとも、その立場をわきまえて行動する。ここには間違いなく、純然たるプロフェッショナルがいた。

「日々仕事をしながら、みんなと練習する。そういう時間が、かけがえのないものでした。少し離れてリフレッシュして、やっぱり自分はサッカーなんだと思ったら……」

堂園さんは現役復帰への未練も口にしている。無理もない。激しく情熱を傾ける対象から離れた時、その喪失感に打ちひしがれる。それがサッカーという競技と向き合い、闘ってきた者の純粋な感情でもある。

清廉で高潔な女子サッカー

日本で女子サッカークラブが誕生したのは1966年。神戸市立福住小学校で『福住女子サッカースポーツ少年団』というチームが発足したのが、その始まりだという。その後、1972年に東京で『FCジンナン』というクラブチームが誕生し、1978年に台湾で開催されたアジア女子選手権にFCジンナンが『サッカー女子日本代表』として参加したのが日本女子サッカー初の国際試合だった。ちなみに日本女子サッカーのレジェンドと称される澤穂希(INAC神戸)の生年月日は1978年9月6日である。まだまだ日本女子サッカーの歴史は浅い。しかし、この競技と向き合う者たちの情熱は尽きず、今も連綿と炎が燃え盛る。

先日、アルビレックス新潟の田中達也と話をする機会があった。

「俺の長女は今、サッカーをプレーしているんですよ。長女はちょうど2011年の女子ワールドカップでなでしこジャパンが世界一になった世代の子ですからね。当然、サッカーに対する思いは深いですよ。でもこの前、所属するサッカークラブで『好きな選手は誰?』と聞かれて、長女は『田中達也!』と答えたらしいんです。でも周囲は長女の父親が俺だって知らないので、『なんで?』だって(笑)。そりゃあ、そうですよね。普通はメッシとかネイマールとか、日本人選手では本田とか香川とか内田とか、女子なら澤さんか、今なら宮間さんとかになるでしょ。田中達也じゃないよね(笑)」

カナダワールドカップ決勝で日本女子代表が敗北を喫した後、キャプテンの宮間あやが謝罪の言葉を繰り返しながら、こう言った。

「前回(2011年のドイツ女子ワールドカップ)(日本女子代表が)優勝してから、女子サッカーへの関心や興味を持ってもらえるようになりました。とはいえ、このワールドカップ前には、国内リーグの女子サッカーに対する関心が薄れてしまっていました。その中で、この大会で結果を残すことが、これから先の女子サッカーを背負っていく選手や、これからサッカーをやろうという少女たちに残せることだと思っていました。そこに立って初めて、女子サッカーをブームではなく文化にできるようにスタートが切れるのではないかと思います」

日本国内における女子サッカーの環境はまだまだ整っているとは言い難い。サッカーを本職とするプロ契約選手は数えるほどしか存在せず、大半の選手は他に職業を持ちながらプレーを続けている。しかし、これは日本だけの問題ではない。国内リーグが活況なアメリカ、カナダなどでは女子サッカー選手のステータスが高まり、プロフェッショナルとしての存在価値を高めている。しかし、日本人女子選手が時折移籍するヨーロッパ各国の国内リーグは日本同様に興行面で苦しく、環境整備に苦しんでいると聞く。

それでも私は、女子サッカーの未来に輝かしい未来を見出す。私はその競技に真摯に取り組み、魂を焦がす者の存在を目撃してきた。私は今、清廉で高潔な、この女子サッカーという競技に親しめる幸せを感じている。その先の未来に、一点の曇りもないと信じている。

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