【無料公開】私信【島崎英純】日々雑感─鈴木啓太(2014/12/03)

啓太との出会い

僕は2001年7月に某サッカー専門誌に転職し、浦和レッズの担当記者になった。当時のJリーグは2ステージ制で、NICOSセカンドステージが開幕する時期だった。意気込んだ僕は、2001年8月11日、浦和のホーム、駒場スタジアム(現・浦和駒場スタジアム)へ赴いた。

背番号13を付けた坊主頭の選手が気になった。内舘秀樹に代わって後半の64分に出場した選手だった。あまりセンスは感じられなかったが、とにかく一生懸命走っていた。鼻持ちならない新人記者だった自分は、あまり注目されていない選手を評価して記者としてのステータスを高めたいなどという欲望があった。だから試合後、初めてミックスゾーンへ行って彼を待ち、ドキドキしながら1対1で話しかけてみた。

──あのー……。

「はい!」

とても元気に返事をしてくれた19歳の少年は、弾けるような笑顔を浮かべながら挙動不審な僕の質問に答えてくれた。

──どんなことを考えてプレーをしていたのですか?」

「僕は下手な選手なんです。夏にフェイエノールト(オランダ)へ移籍した(小野)伸二さんみたいなテクニックは全然ないので、とにかくピッチを走り回って味方選手のカバーをしようとしていました。スタミナには自信があるので」

会社へ帰って試合のリザルトを確認した。2001年・NICOSセカンドステージ・第1節・ヴィッセル神戸戦。この試合が、2000年に静岡県の東海大翔洋高校から浦和へ加入した鈴木啓太のJリーグデビュー戦だった。

それから数え切れないくらい取材した。時代の中で、浦和と啓太が辿る道筋を詳細に、丁寧に、紡ごうとしてきた。

2002年シーズンから2004年シーズンにかけて、啓太はアテネオリンピックを目指すU-23日本代表のキャプテンに任命され、アジア最終予選を戦い抜いて見事本戦への出場を決める原動力となった。しかし2004年に開催されたアテネオリンピック本戦のメンバーからは落選した。啓太が憧れる同郷で浦和のレジェンド・小野伸二がオーバーエイジ枠でオリンピック代表に選出され、それに弾かれる形で啓太がポジションを失ったのだった。

苦境に陥った時、その選手の力が試される。代表落選が発表された直後に行われた2004年7月17日、ヤマザキナビスコカップ・グループリーグ第5節・ジェフユナイテッド市原(現・ジェフ千葉)戦で、啓太は同じくオリンピック代表に落選した山瀬功治と共に出場し、鬼気迫るプレーで相手を圧倒した。直後に実施したインタビューで、彼はこう答えている。

「そりゃあ、代表に落選したのはショックだったよ。でも、だからって落ち込んでそれをプレーに反映させちゃダメでしょ。僕ら選手は、いかにピッチでその姿勢を見せるかに懸かっているんだから。だから直後のナビスコカップはかなり本気を出したよ(笑)。でも、そこで浦和レッズサポーターの大声援を浴びてこう思った。『そうだ、俺には浦和という居場所があるんだ』って」

某サッカー専門誌で実施したこのインタビューの見出しで、僕は啓太を『六等星』と評した。彼は笑いながら僕にこう言ったのを覚えている。

「六等星って、すっごく光が小さいじゃん!(笑)。でも、いいかな、それで。そんな微かな光でも、それを探して見てくれている人がいるってことだから」

一生忘れぬ出来事

僕は2006年の8月に某サッカー専門誌編集部を退職してフリーになった。何のツテもなく、ただの思い切りで会社員を辞めた僕は、当座の仕事に困って同じく某サッカー専門誌を退職してフリーになり成功を収めていた頼れる先輩に相談して、日本の出版業界でナンバーワンと称されるスポーツ総合誌の編集者の方と引き合わせてもらえることになった。

ざっくばらんな居酒屋の席で、その編集者の方が僕にこう言った。

「島崎さんは浦和レッズの取材を多くなされているそうですね。だったら、今、イビチャ・オシム監督の日本代表でキャプテンを務めている鈴木啓太選手のことはよくご存知なのですか?」

僕は「はい!」と答えた。これは、もしかしたら啓太に関連した何かの原稿を発注していただけるかもしれない。そう勢い勇んだ僕だったが、その編集者の方が次に発した言葉は僕の想像とは異なるものだった。

「いや、実は私は、あまりサッカーには造形が深くないんです。でも、その選手が上手いのかどうかというのは素人の方が感覚的に感じやすいとも思いましてね。その素人である私からすると、何故、鈴木啓太という選手が代表に選ばれているかが全く分からないのです。他の日本代表選手と比べても、彼はそのレベルに達していないと思うのですが、いかがですか?」

激しく憤りを覚えた僕は、初対面の編集者の方に啓太の特徴やストロングポイントを説明しようと試みた。しかし僕の言葉は届かず、編集者の方はこういって話題を打ち切ろうとした。

「いやはや、島崎さん、そのように特定の選手に肩入ればかりすると、今後の評論活動にも支障をきたすと思いますよ。それと、私の雑誌では今のところ鈴木啓太選手についての原稿をお願いする予定はありません。申し訳ありませんでした」

悔しかった。涙がボロボロと流れ、その場で立ち尽くしてしまった。その後、編集者の方と別れて先輩にバーへ連れて行かれた席で懇々と説教された。

「お前さ、編集者を紹介した席で号泣するなんてありえないぞ。これからフリーとしてやってくんだろ? だったらもっと我慢することも覚えなきゃダメだ。でもさ、お前の気持ちは分かる。あの編集者の方は『編集活動に支障をきたす』と言っていたけど、だからって普段の試合の採点などで特定の選手を優遇したりなんかしてないんだろ。それは専門誌にいた俺も分かってる。それに特定の選手に肩入れするからこそ、俺ら書き手はその選手の人生を投影して、それを知りたい読者へ文章を提供できる。だからお前の今の気持ち、それは分かるし、変える必要なんてないとも思う」

僕は本当に先輩に恵まれている。紹介してくださった編集者の方との関係をこじらせてしまったのに、励ましの言葉をいただいた。僕はこの日のことを一生忘れない。

啓太は2006年、2007年のJリーグベストイレブンに選出され、2008年にはサッカー担当記者が投票で選出する日本年間最優秀選手賞を受賞した。直後に僕は、日本代表でも確固たる実績を築きあげた啓太のインタビューを前述のスポーツ総合誌で任され、啓太はその表紙を飾った。

オシム氏との再会

一方で啓太は、浦和、日本代表の両輪でフル稼働したために体調を激しく崩してもいた。2008年の秋口に扁桃炎を患って戦線離脱した時は喉の病気であることから唾を飲み込むのも困難で、ようやく復帰を果たした時は体重が11キロも減っていた。また日本代表監督がオシム氏の体調不良から岡田武史氏へバトンタッチされたタイミングで、啓太は代表への選出が見送られるようになる。そして浦和もまた、2007年のアジア・チャンピオンズリーグ制覇を境にチーム力が下降線を辿り、タイトルから遠ざかっていった。

2010年シーズン、浦和はフォルカー・フィンケ監督体制の下で、南アフリカ・ワールドカップ開催によるリーグ戦中断期を利用してオーストリア・グラーツ近郊で強化キャンプを張った。啓太は新進気鋭の細貝萌(ヘルタ・ベルリン/ドイツ)の台頭もあって控えに回ることもあり、すでに代表活動からも遠ざかっていた立場に置かれていたこともあってモチベーションが激しく低下していた。この時の啓太はサッカーを辞めようかと本気で考えていた節がある。そこで僕は、オーストリアキャンプで、宿泊ホテルから自転車で練習場へ通う啓太と一緒にペダルを漕ぎながら、こんな話をした。

──そういえば、今、オシムさんってこのキャンプ地近くのグラーツの自宅にいるんだってね。ところでオシムさん、今回のワールドカップでテレビのコメンテーターも務めているんだけど、記者向けの懇親会があって、その時に啓太のことを話していたよ。

「なんて言ってた?」

──『今回のワールドカップで、本来ならばここ(代表)にいなければならない選手は誰ですか?』という質問に対して、オシムさんは即答で『鈴木啓太』と答えていたよ」

無言になった啓太は数分後、サッと右手を挙げて去っていった。このキャンプ中、1日だけオフを与えられた選手はグラーツ市内を観光したり、買い物をしたりと様々なリクリエーションをしていたが、啓太だけはひとりチームから離れ、ワールドカップのテレビ解説を務めるためにグラーツ中央部のホテルに居たオシム氏の下を訪れている。

「オシムさん、俺になんて言ったと思う? 『お前、なんでこんなところにいるんだ? 南アフリカへ行かなくていいのか?」だって(笑)。その言葉を聞いて『よーし、やってやるよ!』って思ったよ」

新たな挑戦

2014年シーズン、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督3年目のシーズンで、啓太は不退転の決意をもって臨んでいたように思う。啓太自身、ミシャ監督のことを自らのプレースタイルの幅を広げてくれた恩師だと思っている。

「ミシャが『こうプレーすると、もっと上手くなるぞ』と言ってくれて、素直に上手くなるかもと思った。それが形に出ているんだと思う。ミシャが俺に要求したものが、俺がこれまでプロとしてプレーしていた中で武器としていたものとは違っていた。だから、できるのかどうか不安はあったけど……。俺も学生時代はオフェンシブなプレーもしていたし、練習の時のミニゲームで得点することもあった。ただ試合になると点を取れないんだけど(笑)。でも、少しだけ静岡でプレーしていた頃(学生時代)の感覚が残っている部分はあった。ただ、それは技術の高い選手がやるもので、例えばロビー(ロブソン・ポンテ)や(柏木)陽介などの背番号10を着けるような選手がするプレーだと思っていた。でも、そのような攻撃的な要素をミシャから要求されて、それをこなすことで新しい意識が芽生えたんだよね」

僕は、2014年シーズンのペトロヴィッチ監督の啓太の起用法に関していくつか疑問点があった。中央エリアに陣取ってチームをオーガナイズする役割のボランチを途中交代、もしくは途中出場させる意図が今ひとつ読み取れなかったのだ。そこで2014年4月26日のJリーグ第9節・柏レイソル戦で浦和が逆転負けを喫した後のミックスゾーンで、啓太に問い掛けをした。この試合の啓太は73分にDFの濱田水輝と交代している。

──啓太の起用法にはどんな意図があったんだろう?

啓太は憮然とした表情でこう答えた。

「そんなこと、自分には分からないよ。監督に聞けばいいじゃない」

──でも啓太がいる間にチームは2失点した。ボランチとして、役割に問題があったのでは?

「そうですね。これ以上答えることはないよ。以上」

後に、このやり取りに関して、メディアの立場として厳しく試合内容を精査し、監督、選手へ取材をする責務があったとして、それでも僕は行き過ぎた質問をしてしまったと自省した。その後、啓太本人とも話をしたが、やはり承服していなかった。啓太はチームの一員として、身を粉にして全力でプレーしている。そして2014シーズンの浦和は監督、スタッフ、選手、サポーターが一丸となって悲願のタイトルへ突き進む覚悟を決めている。そこでチーム内に不協和音を生じさせるような言動などすべきではないし、それをメディアに漏らす振る舞いなど、今の啓太がするはずもなかった。この日以来、僕は今日まで、啓太とは一言も会話を交わしていない。

もう一度立ち上がってほしい

2014年11月3日、Jリーグ第31節・横浜F・マリノス戦で、啓太は前半限りで途中交代した。明らかにパフォーマンスが悪く、ペトロヴィッチ監督が戦術的交代を施したのだと思った。

2014年11月15日、国際Aマッチデーの影響でリーグが中断した時期に実施された川崎フロンターレとの練習試合で、啓太はセカンドチームのボランチポジションで先発したものの、わずか10数分でプレーをやめてしまう。双眼鏡で浦和ベンチを覗くと、啓太は立ったまま腰に手を当てて下を向いていた。クラブスタッフが啓太の方に手を置き何か言っている。啓太は、その言葉を聞いて力なく首を振るだけだった。

後日、人づてに啓太が不整脈を患っていると聞いた。この病の詳細に疎い僕はすぐにインターネットで検索して調べた。

《不整脈》(ふせいみゃく、英語:Arrhythmia)とは、心拍数やリズムが一定でない状態の事を言う。期外収縮 (Premature Contraction)はR-R間隔がほぼ一定だが、一部の心拍が前にずれた状態。あるいは正常な脈がかき消されたり(代償性期外収縮)正常な脈の周期と等間隔で発生する(間入性期外収縮)こともある。症状が出る場合、主に胸部に例えようのない不快感を覚えたり、連発するとめまいや失神を起すが、心疾患がない場合は放置しても生命への危険はない。心疾患がある場合は最悪の場合心室細動などに繋がる恐れがあり危険である。

啓太は今、心拍数を測るハートレートモニターを装着して練習をこなしているが、実戦の舞台では環境、状況が異なるため、試合出場によって症状が悪化する恐れもあるためにチームへの帯同を見送られている。

チームはリーグ優勝への苦難の道のりを進んでおり、何としても自ら貢献して役割を果たしたいがそれができない。チームが佐賀県鳥栖市でサガン鳥栖と引き分けてリーグ首位の座をガンバ大阪に明け渡した2014年11月30日、さいたま市内の大原グラウンドで取材記者に囲まれた啓太はこう答えたという。

「検査も行い、脈が正常ではない不整脈だった。最終的にはチームに貢献できるかどうかということも含めて、この2試合(第32節・G大阪戦、第33節・鳥栖戦)は難しいと判断した。でも、気持ちの部分では今も葛藤がある」

啓太がどんなにこのチームで戴冠を果たしたいかを知っている。鳥栖戦前日の練習ではチーム帯同が決まったFW阪野豊史の個人練習に付き添い、身ぶりを交えて何かを指導する啓太の姿があった。一丸で戦うことの尊さを指揮官から教わった啓太は、このチームで優勝を成し遂げるために、今自分ができる精一杯の尽力を果たしている。

サッカーに情熱を注ぎ、ひとつのチームでプロサッカー人生を歩んできた青年は今年33歳になった。

どうか彼からサッカーを取り上げないでほしい。まだずっと、彼のプレーを観ていたい。僕は明日を信じている。啓太も、自分を信じてほしい。いつかまた立ち上がり、その勇姿を、その振る舞いを、この浦和レッズというチームを通して、僕たちサッカーファンに示してほしい。

それを今、日々願っている。

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