【島崎英純】2011選手総括-山田暢久(2011/12/31)

2011年も、ついに大晦日を迎えた。今年の日本は大震災や水害などがあり、いまもまだ厳しい環境に置かれている方々が沢山おられる。来年は何とか、この状況を乗り切り、皆さんにとって幸せな一年になることを祈念したい。

浦和レッズの2011年シーズンも苦難の連続だった。かつての浦和を支えたゼリコ・ペトロヴィッチが新監督に就任するもシーズン途中で更迭され、ユース監督を務めていた堀孝史氏がトップチームの指揮官に就いて残留争いを戦うことになった。結局リーグ最終節にようやくJ1残留を決めたが、その柏レイソルとの試合は惨敗で、相手にリーグ優勝を決められてホーム・埼玉スタジアムで歓喜を見せつけられた。またナビスコカップでは決勝に駒を進めたものの鹿島アントラーズの壁に阻まれて準優勝に留まり、これまた相手の優勝を眼前で見つめた。そして天皇杯では今季J2優勝を達成して一季でのJ1返り咲きを果たしたFC東京に敗戦を喫してベスト8に終わった。これで浦和は4年連続の無冠となり、来季は元サンフレッチェ広島監督だったミハイロ・ペトロヴィッチ新監督の下、またしても一からのスタートを切る。

さて、今回は2011年シーズンの選手総括5回目。一応背番号順なので、彼について論究したいと思う。

MF 6 山田暢久

-2011年シーズン成績

2011年シーズン採点 5

リーグ戦24試合出場0得点

ナビスコカップ4試合0得点

天皇杯1試合0得点

2011年シーズンベストゲーム:Jリーグ第7節・名古屋グランパス戦

2011年を締めるタイミングで山田暢久について語るが、別に他意はない。順番でこうなっただけのことである。念のため。

今季の山田暢は自身のサッカー人生の中で最も不本意なシーズンだった。それは本人も自覚していて、彼はこう振り返っている。

「まあ、少し誤解のある言い方かもしれないけど、今季はサッカーをしていて、本当につまらなかった。そのくらい、チームとして難しいシーズンだったと思う」

実は山田暢は、今季のチームが始動した1月下旬の宮崎キャンプの時点で、「今季は厳しいシーズンになる」と予測していた。それは指揮官がフォルカー・フィンケからゼリコ・ペトロヴィッチへ代わり、あまりにもチームスタイルが変化してしまったことを彼自身が大いに戸惑ってしまったからでもある。

ここ数年の山田暢はサイドバック以外にボランチやセンターバックなどで起用されることが多くなった。それは彼のポリバレント能力の高さを示している。普段の態度や言動から誤解されがちだが、山田暢は非常にサッカー脳が高く、そのポジションに適したプレーを瞬時に選択できる選手なのだ。また36歳の年齢ながら彼の走力、スタミナはチーム内でも水準以上で、フィジカルについては20代の選手と比較してもいまだ上位につけている。

しかし、今季の山田暢はペトロヴィッチ前監督の要求に応えられないプレーが目立ってしまった。

自分の特長を生かせず

シーズン序盤の山田暢は主にセンターバックを務めたが、相手セットプレーでの空中戦やマンマーキングに苦慮して失点の要因を生んでしまった。彼の特性からいってマンマークが下手だとは思えないのだが、厳格なマーキングの中で相手に競り負けるシーンが多かったのは残念だった。マーキングミスについては本人も相当反省していて、過ちを繰り返さないように努力はしていたが、ポジションをボランチに移してもなかなか改善されず、シーズン中盤以降はベンチを温めることが多くなった。

ただし、山田暢の特長とペトロヴィッチ前監督の戦術がマッチしていた面はある。例えば彼は走力に自信があるためにバックラインを高く押し上げる姿勢が高く、自らの背後にスペースを生むことを厭わない。彼は様々なポジションを経験していることでバランスに注力する気持ちが強く、チーム全体のコンパクトネス維持についてはチームメイトの誰よりも徹底させる意欲があった。しかし、たとえ山田暢にその意思があっても、パートナーであるもうひとりのセンターバックやサイドバック、後方のゴールキーパー、前方のボランチらとの連係が取れないと難しくなる。山田暢としては監督の指示通り果敢にバックラインを上げる意図があったが、それに味方選手が呼応しないシーンは何度も見られたし、それに対して本人が苛立ちを覚えている所作も垣間見られた。ちなみに、これはあくまでも本人の主観だが、彼曰く「ペトロの思うスタイルでバックラインを維持するなら、俺とツボ(坪井慶介)が最も合っていると思う」とも述べている。

ボランチでのプレーについては、マンマーキングの不備で失点に関与した試合もあったが、総じて彼のプレーは戦術面で忠実だったように思う。前線の攻撃陣と後方のバックラインとをリンクさせる”接着剤”として尽力していたし、味方のカバーリングやフォローにおいてはその能力を如何なく発揮してもいた。ただ、本来は高いはずの攻撃特性が、今季のボランチポジションではほとんど表出されなかったのが残念だった。ただし、それはチーム戦術の中でボランチポジションの攻撃参加が規制されていた事情もある。

浦和レッズはJリーグ第10節の柏レイソル戦で1-3の完敗を喫したが、この時の山田暢と柏木陽介のボランチコンビの機能性は最悪だった。当時のチームは成績が上がらずにチームスタイルをリニューアルさせていたが、その指針が見えずに袋小路に入ってしまったかのようなパフォーマンスが散見された。山田暢はどこか所在なげで、ストロングポイントだったはずのスペースケアやフィジカルコンタクトを実践できずに相手危険人物のレアンドロ・ドミンゲスに蹂躙されてしまった。

今季は本当に辛かった

一方で、今季の山田暢のベストゲームに挙げられるのはリーグ第7節の名古屋グランパス戦だ。今季の浦和はチーム全体のベストゲームが非常に少なく、必然的に選手個々のベストゲームも限られて、この名古屋戦が個人のベストゲームになることも多い。そして山田暢も名古屋戦以外に好パフォーマンスを発揮した試合が思い浮かばないのが寂しい。しかし今試合の山田暢は鬼神の如く中盤に君臨して相手をピッチに叩きつけた。それによってチーム全体が前掛かりになり、名古屋を自陣に押し込むことに成功した。

本人自らが常々口にしていることがある。

「これもさあ、人から誤解されていると思うんだけど、自分はあまり個人が目立つのって好きじゃないのよ。サッカーはやっぱりチームスポーツだからさ。もちろん誰かが活躍して点を取ったり防いだりしなきゃいけないんだけど、本質的には11人全員がピッチで機能してなきゃいけないと思うんだよね。それとなにより、俺だけが目立って勝つより、チームメイトみんなが連動して、全体で勝ち取った勝利の方が嬉しいのよ。その意味では、今季は本当に辛かったなぁ」

私的には、ペトロヴィッチ前監督から堀監督に指揮官が代わってからの山田暢の所作は印象的だった。彼は指揮官交代後に一層ベンチを温めることが多くなったが、若い頃とは異なり、自らの感情を公にすることをしなかった。ポジションについても本来のサイドバックに戻されたが、限られた出場機会の中でプレーに専念し、チームの雰囲気作りに一役買っていたように思う。

それは山田暢自身が今季の自らのプレーパフォーマンスの低さを自戒していたからに他ならない。もちろんチーム全体の戦術面については彼自身も意見は多々あったが、最低限のプレーを維持できなかった点を悔恨し、自責の念に駆られる姿は今季何度も見てきた。常に飄々とし、強気な態度を崩さないできた彼が、これだけ悲嘆し、途方に暮れていたのも初めて見た気がする。

ミハイロ・ペトロビッチのスタイルと親和性がある

2012年シーズンの来季。山田暢はどのような形でその忸怩たる思いを払拭しようとするのか。体力面に限っては36歳の今も衰えを感じないが、精神面においては少々不安がよぎる。だが、これは彼と10数年付き合ってきて確信しているのだが、彼はチーム戦術が整備されてさえいれば自らのモチベーションを高められる選手なのである。これも意外に聞こえるかもしれないが、彼がこれまで支持し、いまでも「やりがいを持って闘えた」のは2002年-2003年シーズンのハンス・オフト、2004-2006年シーズンのギド・ブッフバルト、そして2009年-2010年シーズンのフォルカー・フィンケの3人の指揮官の下でだった。その意味では来季の指揮官であるミハイロ・ペトロビッチのスタイルは、実は山田暢のサッカー観と親和性があると、私は思っている。

最後に。今季最終戦となった天皇杯準々決勝・FC東京戦の前半に相手FWのルーカスと交錯して左足ふくらはぎ付近を痛めた山田暢は珍しく苦悶の表情を浮かべて担架で運ばれ、途中交代を余儀なくされてしまった。当初は重傷とも伝えられたが、その後の診断の結果、左足アキレス腱上の筋肉を痛めて内出血はしているが、長期離脱は避けられたようである。

「ドクターからは全治3週間って言われたんだけど、『ヤマだから分からない。もっと早いかもしれないし』とも言われた。それってどういうこと? まあ、ほとんどケガしたことがないから分かんないのかもね。俺のケガの前例の資料がないんでしょ」

それと、試合後に救急車で病院に搬送されたのはこんな理由だったらしい。

「いや、本当に痛かったのよ。後半の20分くらいまで悶絶してたし。で、熊谷のスタジアムは道が狭くて、病院まで渋滞するかもしれないって言うから、『そんな我慢できないー。救急車でスパッと行ってくれー』って叫んだから呼んでくれただけ。ちょっと大げさだった?」

まあ、このマイペースっぷりが、彼の真骨頂でもある。

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