★無料記事/【島崎英純】日々雑感-笑顔の人(2011/5/26)
坪井のダイビング
Jリーグ第12節の鹿島アントラーズ戦で2-2と引き分けた翌日、浦和レッズは練習場の大原グラウンドでセカンドチームとJ2の横浜FCとトレーニングマッチを行った。
当日は空模様が怪しく、試合開始の13時時点では曇り空だったものの、すぐにでも雨が降り注ぎそうな雰囲気だった。試合は開始直後に原一樹のゴールで先制した後も浦和が横浜FCを押し込むような展開で進んだが、30分前後を過ぎたところで案の定上空に黒い雲が垂れこめて雨が降り始めた。ところがこの雨足が予想以上で、いわゆるゲリラ豪雨のような凄まじいもので、試合は前半終了時点で急遽中止となってしまった。
選手たちはミーティングの末に試合の中止が決まると、ゴールを片づけるべく豪雨のグラウンドに飛び出した。その時、一目散にピッチを駆け、水浸しになった芝生へ野球のヘッドスライディングよろしくダイビングしたのが、ベテランの坪井慶介だった。
代表引退の真意
2011年シーズンの坪井は控えに甘んじている。
今年で32歳になる(1979年9月16日生まれ)。年齢で言うと、チームでは山田暢久(1975年9月10日生まれ)、山岸範宏(1978年5月17日生まれ)、平川忠亮(1979年5月1日生まれ)に次いで4番目の年長者である。ただし坪井の同期には上記の平川、そして堀之内聖(1979年10月26日生まれ)がいるので、坪井がチーム内でそれほど年寄り扱いされているわけでもない。まあ、最年長の山田暢があのキャラクターなので、このチームに親父臭い選手はいないのだが……(あえて言うなら、3児の父である山岸?)。
ただ坪井本人は自身の年齢について、やはり実感を覚えているようだ。三十路を過ぎる前、20代後半の頃から身体面のケアをこれまで以上に欠かさなくなったのはそのひとつ。それまではあまり筋力トレーニングなどを行うタイプではなかったが、最近は練習前と練習後の2回、入念に筋肉をほぐしたり、鍛えたりして強化を図っている。
一方で、坪井は2004年シーズンに左太もものハムストリングスを断裂して長期離脱したことがあり、負傷が癒えた後もしばらく足が攣る症状が度々起きて悩んだことがある。それを踏まえて、彼は近年になって身体面の強化に力を入れ出したという事情もある。
坪井はひとつのことに注力するタイプでもある。彼は20代に日本代表の中核を担うDFとして活躍。2006年のドイツ・ワールドカップに代表として出場し、翌年にイビチャ・オシム監督が就任してからしばらくもその地位を堅持したが、オシム監督が病に倒れ、岡田武史監督が就任してからはレギュラー出場できない時期がしばらく続いた。すると彼は2008年初頭に躊躇なく代表引退を表明し、浦和レッズでの活動に専念することを宣言した。
当時の浦和はホルガー・オジェック監督体制2シーズン目で、シーズンイン直後にグアムでキャンプを張ったのだが、その時の坪井の言葉、態度が深く印象に残っている。彼は同じく同期で、2008年シーズンに新加入した高原直泰をフォローし、人見知りな彼をチームメイトやメディアに積極的に紹介していた。そして一言、茶目っ気たっぷりの笑顔で、「僕のことについては全てノーコメント!」と言って、公には一切本心を明かさなかった。ただ、実は彼はこう思っていたのだった。
「代表の引退は、『もうこのチームで俺は必要とされていないな』と実感したから。特にセンターバックは代えの利かないポジションだし、一度レギュラーポジションを失ったら挽回するのは難しい。そんなモチベーションで戦い続けられるのかなと思った時に、絶対に周りに迷惑をかけちゃいけないって思ったんだよね。例えばベンチで腐るとか。自らの立場に責任が持てないならば、そういう選手はチームにいてはいけないんですよ」
普段は柔和な表情を浮かべ、場を和ませて明るさを振りまく彼だが、プロサッカー選手としてのプライドは非常に高く、頑固でもある。自分の意見をしっかりと備えているし、そのためには日常生活における犠牲も厭わない。だからこそ彼は、その本心を明かさないまま代表を去り、浦和に心血を注ぐ意思を固めた。
フィンケ監督のもたらした秩序
チームの在り方についても信念がある。2008年シーズン、浦和はチーム成績が下降して6年ぶりの無冠に終わった。また、このシーズンは坪井自身も調子を落として一時期レギュラーを外されたが、彼は自らの境遇に対する不満は一切漏らさず、ある一点について強く主張していた。
「俺、どちらかというとチーム内に規制や秩序がある方が好きなんですよね。だってサッカーって個人競技じゃないでしょ。団体競技ですよね? だから、ひとつのことを様々な人間が成し遂げるには、それなりの結束が必要だと思うんですよ。その意味では、とっても辛いけど、今のレッズにはその要素が決定的に欠けていると思う」
坪井は自らが試合に出場できないことがあっても決して腐ったりしない。むしろ自らの境遇が悪い時こそ周囲を盛り立てて、手を叩いて鼓舞するタイプでもある。
2009年、2010年シーズンにチームを指揮したフォルカー・フィンケについて、坪井はこう分析していた。
「フィンケ監督について、いろいろな意見があるのは知っている。選手の中でも監督に対する印象は異なるしね。でも、俺はそんなに嫌いじゃないんだなぁ。確かにフィンケさんは小うるさいし、文句も多い(笑)。でも、そのおかげで、とりあえずチーム内には秩序がある。そういうの、何度も言うけど、サッカーにおいてはそんなに悪いことじゃないんじゃないかなぁ。まあ、ヤマさん(山田暢久)とかは不満もあるかもしれないけど(笑)」
この体制で戦いたかった
2010年シーズンの夏、勝利を欲して止まなかった第18節、豊田スタジアムでの名古屋グランパス戦で、坪井は味方選手からのパスを処理ミスして相手にボールを奪われて失点の要因を生んでしまった。
試合後、いつもは「負けた時こそメディアには話さなきゃいけない。それがプロの責務だから。それは井原さん(正巳/柏レイソルコーチ)から教わったことでもある」と言う彼が、メディアの前で無言を貫いていた。ただし、足早に通り過ぎるのではなく、ただ黙ってメディアの質問を受け、ただ頷いていた。そこでメディアが観念し、坪井の下を離れて他の選手に話を聞きに行くと、彼はゆっくりとチームバスの方に歩いて行った。だが、その視界に私の姿が映ると、彼は眼を真っ赤に染めてこう言った。
「今日はひとりでこの負けを噛み締める。夜も寝ないで。一生、この事を忘れないために」
この一件についても、坪井はその後に当時の心境を述べている。
「当時はチームに対する風当たりが強かった。連敗もしていたし、それが2年連続で夏場の時期だったんで、チームの成長が見られないという意見もあった。でも、俺はこの体制で戦いたかった。できればずっと。だからここで結果を残したいと思ったんです。それなのに自分のミスでチームが負けちゃった。そんな自分がむちゃくちゃ腹立たしかったんです。チームのために何かをしなきゃいけないのに、逆に自分が足を引っ張っている」
このクラブのために
2011年シーズン。クラブは新監督にゼリコ・ペトロヴィッチを招聘した。浦和の元選手で熱血タイプの指揮官に周囲の期待は高まった。そんな中、新体制のチームで、坪井は常に声を張り上げ、仲間を鼓舞し、場を盛り上げている。
「最近は練習終了間際にシュート練習をして、入った奴から抜けていって、ゴールできない奴はずっと負け残りでやるんですよね。いやー、自分は下手くそだから大抵最後まで残っちゃう。この前は監督と対決になって、最後に俺が勝った時は心から絶叫しちゃいましたよ。『ヤッター! 勝ったぁー』って(笑)。大人げない? いいんです。31歳のおっさんだって嬉しい時は嬉しいんです(笑)」
今季開幕戦のヴィッセル神戸戦で、坪井はアウェー神戸の地に帯同できなかった。ペトロヴィッチ監督は本人と面談して「坪井にはしっかりと理解をしてもらった」と言った。
理解した? 境遇を受け入れた? そんなはずはないだろう。悔しいはずだ。自身の立場など理解したくもないだろう。人一倍プロ意識が高く、プライドも兼ね備える信念の人が、今の自分を不甲斐なく思っているのは間違いない。だが坪井は今、自身の境遇を甘んじて受け入れ、今、チームのために自らが何すべきかだけを考えている。それが彼なりの、意地の張り方なのだ。
「俺みたいな立場の人間が腐ったら、そのチームは終わっちゃうでしょ」
第12節・鹿島アントラーズ戦。チームは0-2から後半の3分間で2点を奪取してドローに持ち込んだ。
課題は多い。修正すべき点は多々ある。お世辞にも今のチームは強豪とは言えない。それでも坪井は不出場に終わった試合後、チームバスに乗り込む間際に私の姿を見つけると、視線は逸らしたままで、それでも大きく手を振った。
『まだまだ、これからでしょ』とでも言いたげに……。
プロ根性の真髄を見た思い。苦境の今だからこそ寡黙に、精一杯の笑顔で苦難を乗り切る。このクラブのために、自らを犠牲にして。
闘っているのは、ピッチに立つ選手だけじゃない。
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