浦レポ by 浦和フットボール通信

浦レポ新スタート記念 河合貴子×轡田哲朗対談「どのような想いでレッズを取材しているのか」

河合貴子 Profile
1992年Jリーグ開幕から地元ケーブルテレビの番組MCとして浦和レッズに密着取材をし続ける名物リポーター。姉御肌のキャラクターから、選手、サポーターから「タカねえ」の愛称で呼ばれている。

轡田哲朗 Profile
1981年10月30日生まれ、埼玉県出身。浦和生まれの浦和育ちでイタリア在住経験も。9つの国から11人を寄せ集め、公用語がないチームで臨んだ草サッカーのピッチで「サッカーに国境はない」と身をもって体験したことも。出版社勤務の後フリーに。

二人がレッズをどのような想いで取材をしているのか

椛沢(浦和フットボール通信):まずはあらためて自己紹介的な意味も含めて、お二人が浦和レッズをどのような想いで取材をしているのかをお聞かせ願えますか?

轡田:それいりますか?プロフィールを入れてもらえれば・・・(笑)。

河合:轡田くんは、どういう想いで取材しているの?浦和生まれで、浦和育ちで、どういう想いでレッズを見ているのか、あらためて聞いてみたいね。

轡田:そこにレッズがあったんですよね。1981年生まれで、選手で言うと那須大亮選手、阿部勇樹選手と同じアテネ世代です。Jリーグ開幕が小学6年生で、5年生の時にナビスコカップでJリーグがスタートしましたが、地元にはレッズが出来ました。

河合:開幕したのが小学生だったんだ。私、仕事してたよ(笑)。レッズが浦和に来る前からサッカーをやっていたの?

轡田:父親が浦和市内の高校のサッカー部出身で、サッカーが好きだったんです。父は読売クラブが好きでしたね。母親は日産自動車が好きで。私は10月30日生まれなんですが、その2ヶ月後の元日には天皇杯決勝に連れていかれたみたいです。時々、父親とは西が丘にサッカーを見に行くぞと言われて一緒にサッカー観戦することもあったので、サッカーは好きでしたね。家にNHKで放送した90年のイタリアワールドカップの中継のビデオが置いてあったので、暇な時に一人で見ていたこともあって、西ドイツ代表の選手などは詳しくなっていました。

河合:三菱重工は応援していなかったんだ。

轡田:三菱を応援するという感覚はなかったですね。浦和にチームができるという話になって、単純にレッズを応援するようになったということですね。

椛沢:自然とサッカーがあって好きになるというところが、まさに浦和っ子ですよね。

轡田:特別、何があったからサッカーが好きになったということはないのですが、一番の影響は親ということなんでしょうね。

河合:当時も浦和では、周りの子たちもドッジボールとかではなくて、サッカーボールを蹴っていたの?

轡田:休み時間はみんなサッカーをしていましたよね。校庭にゴールが一組しかないから、色々なチームが同じゴールを使ってサッカーをしていて、同じピッチの中で同時に3、4試合やっているような状況でした。どこのチームのシュートだか分からないから、GKも気が付かないうちにゴールが決まっているとか(笑)。

河合:そういう環境の中で、自分の街に、プロのサッカークラブができるのは嬉しかった?

轡田:嬉しいというよりは、「そうなんだ」という感じでした。Jリーグ開幕の前に、オフトジャパンが大ブームになって、その代表の8番は浦和の選手で、福田という選手らしいよということで、注目をしていました。元日の天皇杯決勝に行くのは我が家の年中行事だったのですが、準決勝でヴェルディとレッズが試合をしているのをテレビで見ていて、勝てば決勝でレッズが見られるんだなと思っていたらカズにやられて、負けてしまった(笑)。

河合:その試合は私もよく覚えている。クリスマスに赤と緑に染まった国立で負けたんだよね。

轡田:ただ、ナビスコカップでも勝ち上がっていましたから、開幕しても、ぼんやりと強いチームなんじゃないかなと思っていましたね。でも実際にJリーグが始まったら、あんな感じに(笑)。

河合:始まったころはスタジアムに来れていたの?

轡田:当時はチケットが取れませんでした。当時はプレイガイドに朝から並んでもすぐに完売してしまっていました。95年くらいまでのJリーグ第一次ブームでは、駒場で試合が見られたのは10試合もないんじゃないですかね。それでもテレ玉の中継はよく見ていました。

河合:そのあと親との話し合いがあって、サッカーが好きだからイタリアに行ってみようということで、イタリア留学をしているんだよね。

轡田:大学に入る直前にイタリアに行きました。そこで語学学校に通ったんですけど、そこの日本人に誘われて草サッカーをやっていて。相手はイタリア人中心で、アフリカ系のオランダ人もいるチームでした。こっちは多国籍で、バックラインではスペイン語を話しているし、FWはポルトガル語を話すようなむちゃくちゃな環境でしたね。

河合:日本人だと、イタリアではサッカー後進国というイメージを持たれていた?

轡田:中田英寿選手のおかげで、そうでもなかったですね。イタリアに行った時は、中田選手がペルージャで大活躍をして、ローマに移籍をして、そこでスクデットを獲った直後くらいでした。ミラン対ローマの試合を見に行こうとミラノの町中を歩いていたら、ローマのサポーターが乗るバスから「ナカ~タ」と言われてミカンを投げられましたからね。彼らはからかっている感じだったと思いますけど(笑)

河合:なるほどね!そこから、どうやってサッカーが仕事になっていったの?

轡田:サッカーの仕事をしたいなと思うようになって、その手段はマスコミくらいしかなかったので、大学をとりあえず卒業して就職をしようと考えて、出版社に入社しました。担当はサッカーではなくて、違うスポーツの取材をしていたんですけれども、ひょんなことから、浦和レッズ、サッカーに関わる仕事を頂くようになって、現在はフリーランスとして、活動をするようになりました。

河合:どういう思いでレッズを見ていた?

轡田:自分は、子供のころから冷めていた面があるので、浦和レッズというチームは“負けて欲しいとは思わないチーム”。そこで試合があれば勝って欲しいと思うチームだったんですね。学生の間は家族でシーズンチケットを買ってスタジアムに見に行っていました。リーグ優勝もACL優勝も埼スタのスタンドで見ていました。

河合:就職してからも、レッズの試合を見に行くために、あの手この手を使って試合を見に行っていたらしいね(笑)。

轡田:スタジアムには戦いに行くという感じではなかったんですけど、サッカーが好きで、どうせ見に行くのであれば、思い入れのあるクラブを見るほうが面白いという感じでしたね。

河合:本当に冷めた感じで話しているけれども、あの手この手を使ってでも、レッズの試合を見に行っていたのは何故だろうね(笑)。轡田くんが面白いのは、冷めているように見せかけて、心は熱いんだろうなという印象ですね。

轡田:人の印象はそれぞれですからお任せします(笑)。

河合:サッカーであれば、浦和ではなくても良かった?

轡田:横浜生まれであれば、横浜だったかもしれませんし、そこはめぐり合わせですよね。

河合:うらやましい話だよね。生まれ育った街にサッカーのプロクラブが出来たわけだから、そして浦和はプロチームが来る前からサッカーの街だったわけだからね。

椛沢:河合さんは、J-COMさいたまの番組「REDS GET GOAL」のパーソナリティとして、浦和レッズに関わったのがきっかけでしたよね。

河合:仕事を始めるまでは、浦和レッズどころか、サッカーに全く興味がなかったわけだけどね(笑)いざ、自分が番組をやるといったら、責任と義務があったから、一生懸命取り組んだ。気がついたら25年経っている(笑)。浦和を取材していく中で、サポーターと選手とクラブの潤滑油に自分が地元メディアとして、なっていきたいというのが思い。なかなか出来ないものだけどね。

(第2回:チームが完成の域に達していることの難しさに続く)

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