【無料掲載】【コラム】日々雑感ー慈愛の人、ミシャ

溢れる情熱を抑えられない

 情熱家であることを包み隠さない、正直な人物だった。初めて出会った2012シーズンの宮崎キャンプでインタビュー取材に臨んだとき、クラブ広報が事前に「30分程度でお願いします」と申し渡したのに、溢れる感情を抑え切れずに2時間以上も熱弁を振るってくれた。浦和レッズはもう一度立ち上がる。前年度に残留争いを強いられたチームを復活させるんだと、彼は私に熱情をぶつけてくれた。「自陣からボールポゼッションすることに意味はある?」と問い質すと、「それは私のサッカーを見て、君が結論を出してくれ。GKからボールを繋いで相手ゴールを強襲する。誰もがやらなかったスタイルで、私たちのチームは頂点を目指す」と言い切った。その眼光はどこまでも鋭かった。

 戦略家だった。チームスタイルは斬新の一言。特殊なシステムを用い、選手には攻撃的に戦い続けることの尊さを説いた。初めての対外試合で湘南ベルマーレに5-1で完勝したゲームでは、全ての得点がサイドからのクロスを経由した。指揮官は独自のメソッドで得点を挙げる道筋を示し、選手たちはチーム結成から僅か10日で確信を得た。

 究極のロマンチストだった。『サッカーは楽しむもの』と語り、結果を求めつつ理想をも追う高尚な姿勢を崩さなかった。

「サッカーはスペクタルなものです。スタジアムに多くの観衆が詰めかける空間でなければならない。いかに良い内容をお互いに求め、それを観る者が楽しむか。それがサッカーの醍醐味です。その中ではもちろん勝敗が付きまとうわけですが、内容を見せた上で結果を得る方が、一層喜びが増す。時には負けることもあります。ただ、その中でも何かの夢を与えることはできる。サッカーは今後、そのような方向へ向かうと思います。つまらない内容のサッカーをして負ければもちろん批判を受けます。しかし良い内容の試合をすれば、その評価を正当に得られる時代になる」

 選手に一定の自由を与える反面、主力を固定化して序列を築く傾向があると揶揄された。しかし彼の根底に各選手に対する感情の差異はない。チーム最年少の伊藤涼太郎がひとりで用具の後片付けをしていたら、烈火の如く怒り出して自ら作業を手伝い、他の選手へ「涼太郎もお前らと同じ、ひとりのサッカー選手なんだぞ!」と叱責したシーンが目に焼き付いている。それぞれの立場を尊重し、道理を貫く。それが彼の挟持だった。

 2017年1月。沖縄県島尻郡八重瀬町でキャンプを張っていたとき、監督の御母堂が逝去した。すぐにでも母国へ帰国したい衝動を抑えながら、「私は浦和レッズの監督」と言って沖縄に留まりトレーニングを続けた。翌々日のトレーニングマッチでズラタンがファーストゴールを決めると、選手全員が監督を囲んで抱き合った。このチームの結束の強さを物語るシーンだった。

 シーズン序盤は順調な成績。リーグで上位に付け、AFCアジア・チャンピオンズリーグでは2年連続のノックアウトステージ進出を決めた。ラウンド16・済州ユナイテッド戦はアウェーで完敗しながらホームで逆転を果たしてベスト8進出。この時点では、まだチームに危機的な雰囲気は漂っていなかった。

 歯車が狂ったのはいつなのか。成績上は4月30日のJリーグ第8節、大宮アルディージャとの『さいたまダービー』で敗戦してから負け数が増えた。このときすでに主力選手の何人かはコンディションを落としていたが、異変を察せなかったチームは坂道を下るように転落する。監督の言動は次第に棘を帯びるようになり、その動揺が表出した。本意では無いのに、人に対して攻撃的になってしまう。葛藤する日々の中で、指揮官に焦燥の念が募った。

 国内3大タイトル獲得は2016シーズンのYBCルヴァンカップのみ。2012シーズンの就任から毎年優勝争いを繰り広げ、2014シーズンはリーグタイトル目前まで迫りながら勝負所で屈した。2016シーズンはJリーグ史上最多タイの勝ち点74を積み上げながら、チャンピオンシップ決勝で鹿島アントラーズにアウェーゴール差で敗れた。タイトルマッチで結果を残せないとレッテルを貼られる日々の中で、最も忸怩たる思いを抱いていたのは監督だっただろう。就任当初はそれほどタイトルへの希求を露わにしなかったのに、近年は歯を食いしばって結果を求めた。浦和の指揮官がどんな責務を負うのか、それを痛感した彼は、正真正銘、クラブ、チームのために心血を注いで闘い続けた。

 志半ばでの別れは残念でならない。5年半に渡る献身的な指導と溢れる情熱を忘れない。見果てぬ夢でも、その道筋に希望という名の光を照らしてくれたことを決して忘れない。

「ダイジョウブ、ダイジョウブ」

 彼が差し伸べてくれた手は暖かで、逞しかった。

 そこには常に、慈愛の心に満ち、破顔一笑するミシャがいた。

« 次の記事
前の記事 »