【島崎英純】日々雑感—遠きかの地でー細貝萌(2015/11/15)

ハジの苦悩

細貝萌(以下、ハジ)とは彼が浦和レッズ在籍時代によく話をした。彼は常にサッカーに対して真摯だったし、生真面目で勉強家だったから、よく『外から観ていて、俺のプレー、どうでした?』と聞かれることがあった。サッカーに関する執筆を生業にする者としては大変嬉しく、当時はよくサッカー談義に花を咲かせた。

ハジが海外移籍を夢見ていることは、当時は知らなかった。後で話を聞くと、それは子どもの頃からの夢だったが、それを周囲に漏らすことはあまりなかったという。だから2010年末にドイツ・ブンデスリーガ、レヴァークーゼンの獲得オファーを受諾した時は正直驚いた。しかし一方で、彼のポテンシャルと固い意志を思えば手放しで喜べたし、個人的には心躍る出来事でもあった。

当時、浦和から海外へ羽ばたいた選手には小野伸二(フェイエノールト、ボーフム、現・札幌)、長谷部誠(ヴォルフスブルク、現・フランクフルト)などがいた。伸二やハセはテクニックもパワーもJリーグで出色だったし、当然世界の舞台でも堂々と活躍できる確信があった。ただハジの場合は、テクニックはお世辞にも高いとは言えない。しかし球際の強さに関しては他のJリーガーを圧倒していて、その力強さはイングランド・プレミアリーグやドイツ・ブンデスリーガに向いていると思っていた。だからこそ、彼のプレーをヨーロッパで観てみたいと、心から思ったのだ。

しかし当時のハジは、夢を叶えようとしているのに深い悩みを抱えていた。今回のトルコでも、ドイツで苦境に陥った時にも発症した手足の肌のただれが、すでにそのときに起こっていた。

ハジの浦和での最後のゲームは2010年12月25日、天皇杯準々決勝のガンバ大阪戦だった。アウェーの万博記念競技場は極寒で、浦和は試合中に雪が舞う中で1─2の敗戦を喫した。ちなみに今試合はクラブのレジェンドであるロブソン・ポンテの最終ゲームでもあった。

このときのハジは、まだ来季の去就に関してすべてを公にしていない状況で、試合後のミックスゾーンでは言葉少なだった。ハジとしては翌日に大原グラウンドで実施する予定の移籍発表会見ですべてを語るつもりで、会見後には複数のメディアに向けた取材も入っていた。

私も当然某雑誌のインタビュー取材を申請していた。そこで私は天皇杯準々決勝を取材し、翌日に伊丹空港経由の飛行機で帰京し、その足で埼玉に向かう予定だった。しかし何と翌日の大阪は降雪が激しく、航空ダイヤが著しく乱れていた。これはマズイ。このままだとハジのインタビューに間に合わない。急いで浦和の広報に連絡すると、すでに会見が始まり、この後、各種メディアのインタビュー取材を受けるが、それでも今から2時間程度ですべてが終了するという。『ああ、もうダメだ』。大変な失態である。このままだと埼玉に着くのは早くても5時間後くらいになりそうだ。ハジとの最後のインタビューだったのに、取材者失格である。伊丹空港の出発ゲート前の椅子に座って頭を抱えていると、再び広報から連絡があり、『ハジ、島崎さんを待つって』。

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