【無料公開】ヤマほど浦和レッズのために身を賭してプレーする選手はいないと断言する【島崎英純】日々雑感-永遠の山田暢久(2013/11/20)

クラブから公式に発表がされたので――。

頑固で愚直で負けず嫌い

なかなか心を開こうとしなかった。口下手な上に生来の人見知りも災いして周囲とコミュニケーションが取れないように見えた。初めて彼にインタビューした時は「はい」か「いいえ」か、「分からないっす」としか答えてくれなかった。きっとたくさんの思いが内包されていただろうに、若かりし頃の彼は周囲を拒絶して、ただ自らが目指すサッカー道に邁進していたように思う。

私が浦和レッズの担当記者に任命された2001年8月当時、先輩記者たちからは「山田は手強い」と言われていた。取材嫌いで無愛想でぶっきらぼうで言葉少なだからか、真意を理解されずによく誤解を招いていた。だが本人はそんな周囲の評価を全く意に介していなかった。プロサッカー選手は日々の中で雄弁に語るのではなく、あくまでもピッチ上の所作によって評価されることを、彼は誰よりも理解していたように思う。時に試合でパフォーマンスが悪かったりもしたが、彼は大抵自らのコンディションを言い訳にせずにはにかんだ仕草をするだけだったし、その汚名は次のゲームで払拭することもしばしばだった。

私は山田暢久が負けず嫌いであることを知っている。右サイドバックのポジションで日本代表まで上り詰めたのに「自分のポジションはトップ下」と言い張った時、私も含めた周囲は軽い気持ちで受け流した。だが本人はいたって真面目に物事を捉え、トップ下のポジションでこそ自らの個性を発揮できると言って憚らなかった。そして浦和レッズがクラブ史上初のリーグ制覇を遂げた2006年シーズン、彼はトップ下のポジションで躍動してタイトル獲得に大きく貢献した。その時、彼が私に向かって「ほらね。言った通りだったでしょ。トップ下が一番俺に合ってるって」と言った言葉を今でも覚えている。周囲がどう思おうとも関係ない。道筋は自分で決める。その頑固さと愚直な姿勢が、20年もの長きに渡り第一線で活躍した原動力だった。

「主導権を握るサッカーをしたい」

ヤマとコミュニケーションが取れるようになったのはいつのことだろう。私は他の大先輩記者とは違って、ヤマとの付き合いはたった12年くらいしかない。それでもヤマはいつしか私に心を開いてくれた(と思っている)し、時に議論を交わしたり、他愛のない話で盛り上がったりもした。

記憶が曖昧だが、彼が私だけでなく周囲にも柔和な表情を浮かべるようになったのは2004年にギド・ブッフバルト監督が浦和の指揮官に就任してヤマをキャプテンに任命した時期からかもしれない。確かに彼はキャプテンシーを発揮する選手ではなく、仲間もあまり彼に頼ることはなかったが、彼自身はこれまでのように自分のことだけを考えるのではなく、チームリーダーとしてどう振る舞うべきかを真剣に考え、必死に周囲とコミュニケーションを図ろうとしていたように思う。その意味ではブッフバルト元監督には本当に感謝したい。山田暢久というひとりの人間が自我に目覚め、『仲間と共に闘う精神』を植え付けてくれたのは間違いなく『ギドさん』だと思うから。

ヤマとよく会話を交わすようになって感じたのは、彼は感覚派ではなく理論派であることだった。長いプロ生活の中で様々な監督の下でプレーし、そのサッカー哲学を確立させてきたが、彼自身もまた揺るぎないサッカー観を有した哲学者だった。彼ははっきりと「主導権を握るサッカーをしたい」と言い切った。カウンターでもポゼッションでもいい。明確なチームコンセプトをベースに、受動的ではなく主体的に戦う姿勢を是とした。

そして彼が最も重視したのがチームプレーだった。ひとりではなく11人で闘い、ひとつの目標に向かって団結する。それがサッカーという競技の本質だと認識していた。エゴイストのように誤解されるがそうではない。彼はあくまでもフォア・ザ・チームを重んじる生粋のサッカー選手だった。

個人記録よりもチームの成績

興味深いエピソードがある。この話を本人にすると「覚えていない」と言うが、私ははっきりと覚えている。2010年7月、浦和レッズがオーストリア・グラーツ近郊で強化キャンプを張った時のことだ。現地の強豪・シュトルム・グラーツとトレーニングマッチを行った時、ヤマは独りよがりなプレーで守備をおざなりにしたロブソン・ポンテとハーフタイム中のロッカールームで激しく口論している。2010年当時のロビーは負傷がちで本来のパフォーマンスを発揮できず、時の指揮官であるフォルカー・フィンケ監督との関係も良好ではないことで苛立ちを抱え、それがピッチ上のプレーに反映されることがあった。その時のロビーも守備は仲間に任せ、自らは攻撃に傾倒したが結果を得られず、ロッカールームで仲間に向かって「もっと守備をしろよ!」と吠えていた。するとヤマが烈火のごとく怒り出し、ロビーに向かって「サッカーはひとりでプレーするもんじゃねーんだぞ。サッカーは皆でひとつになってプレーするもんなんだ。分かってんのか!」と言い放った。私はその様子を直接見聞きしたわけではなく、試合終了直後に細貝萌(ヘルタ・ベルリン/ドイツ)から聞いたのだが、細貝は「あんなに怖いヤマさんは見たことない」と言い、横を通り過ぎようとするヤマに向かって「ヤマさん、ビックリしたよ。あまり大きな声で怒らないでよ」と嗜めていたほどだった。

ヤマは自身の個人記録にはほとんど関心を示さないが、チームの成績には執着する。彼が表に感情を露わしたのはいつだったか。私の記憶では2004年のJリーグ・セカンドステージで優勝を決めた駒場スタジアムでの場内インタビューで興奮のあまり声が裏返った時と、2006年のJ制覇・埼玉スタジアムでのインタビューで涙声になった時(本人は『泣いてない』と言い張っている)くらいしか思い浮かばない。そのいずれもがチームが頂点に立った時、栄冠を得た時に、彼は感情を露わにしている。それを踏まえて今回、契約満了が決まった後の残りリーグ戦3試合に向けたヤマの抱負の言葉を聞くと、その言葉の重みが一層響くかもしれない。
「この後も出来るかぎりの、僕なりの貢献をしたいと思うし、僕のためではなくて、僕もみんなのために最後までやっていきたいです」

浦和と自らの関わり、その終着点とは

ヤマは現在のミハイロ・ペトロヴィッチ監督体制の浦和を大切に想っている。明快なチームコンセプトの下、チームが一枚岩となってシーズンを戦う環境を愛おしく思っている。何より、「ミシャのサッカーは楽しい。こっちが主導権を握って、ゲームをコントロールしている感覚になる」。だからこそ、そんなかけがえのないクラブ、チームで自らがピッチに立てない境遇に忸怩たる思いを抱いていた。

ベンチにすら入れない日々を、ヤマはどんな思いで過ごしたのだろうか。週末に自宅で所属チームのサッカーをテレビ観戦する。その悔しさをどこにぶつけていたのか。練習時、控えチームの中で、現状を打破しようともがいた。昨季のJリーグ第22節・鹿島アントラーズ戦で得意の左サイドからカットインシュートを決めた原口元気が試合後にこんなことを言っていた。
「切り返しとシュート、良かったですか? トントンと素早くボールタッチできました。あのプレーは練習でもよくやっているので自然に身体が動きました。でも、練習ではいつもあのプレー、ヤマさんに止められてしまうんです。僕は幸せです。常にヤマさんのような能力の高い、素晴らしいプレーヤーと一緒にトレーニングできているんですもん。だからこそ本番で、あのようなプレーができたと思っています。だから今回のゴールはヤマさんのおかげだと思っています」

練習でアピールしてもなかなかチャンスを得られない。また、出番が回ってきても本来のパフォーマンスを発揮できず、時に守備的な役回りを貫徹できずにチームの勝利に貢献できないこともあった。そんな時に彼の心をよぎったのは浦和と自らの関わり、その終着点についてだった。

ヤマは今季から契約交渉などについて代理人契約を交わしている。これまでのプロ生活19年間は常に自らがクラブと交渉してきたが、今季ばかりはエキスパートに身を委ねるしかなかった。それほど彼は自らの境遇に危機感を覚えていたのだ。

もちろん20年間共に過ごした浦和で現役を終えるのが一番の希望だが、プロサッカー選手として力を請われなければこの場を去るしかない。生涯浦和で現役を終えるか、それとも他の場で現役を続けるか。その葛藤の中でシーズンを過ごした。

正真正銘の闘士

私の正直な気持ちは、ヤマにはまだまだ現役を続けてもらいたいと思っている。38歳になった今でもトップフォームを保ち、走り負けせず、フィジカルコンタクトを厭わず、確固としたスキルを有している。私が出会った中でも最上級の実力を備える選手が、ここでプロ人生を終えるなど悔しくて堪らない。ピッチに立ち、ボールを蹴ることがプロサッカー選手の生業ならば、ヤマはまだ、それに相応しい実力を備えている。その稀有な才能を、浦和という足枷によって留めさせたくはない。

それでも本人はかねてから思い悩んでいた。「まだ、その時になってみないと考えられない」と前置きしながら、もし『その時』が来たら、浦和でプロサッカー人生を終えるのか、それとも新天地で再び勝負するのか。その決断はし難いと吐露していた。あれほどサッカーが好きな『永遠のサッカー少年』が人生の岐路で思い悩むのは、それだけヤマにとって浦和レッズが大きな存在だった証でもある。

やはりヤマは世間から誤解されていると思う。彼は常に浦和レッズの勝利のためにサッカーをプレーしてきた。不甲斐なき敗戦の後に声を荒げて心情をぶちまけたこともある。自省しながら、チームの問題点を的確に捉えて建設的な論議を繰り広げることもあった。日々の飄々した態度、淡々とした言動は気恥ずかしさを隠すただのポーズだ。ヤマほど浦和レッズのために身を賭してプレーする選手はいないと断言する。それくらいヤマは感情豊かで、雄弁で、浦和が勝利した時は心から喜び、敗戦した時は心から悲しむエモーショナルな選手だった。
「勝てば嬉しい。負ければ悔しい。それ以外にサッカーに求めるもんなんて、あるの?」

山田暢久というプロサッカー選手は、20年の間、浦和レッズのために精魂を尽くして闘った正真正銘の闘士だった。

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