『浦和の一員として認められたい』一心で浦和色に染まっていった興梠慎三との印象に残るやり取り
(Report by 河合貴子)
鹿島時代は大嫌いだった慎三の印象が変わった
「自分の力じゃチームは勝たせられない」と興梠慎三選手は、スパイクを脱ぐ決意をした。
鹿島時代にJリーグ初の3連覇(2009年最終節対鹿島戦・埼スタ)を、浦和を愛する人々の目の前で身体を投げ出したダイビングヘディングシュートを決め、闘う場が浦和になっても2015年、16年とステージ優勝し、天皇杯も2回優勝(鹿島時代にも2回)、YBCルヴァンカップ1回(鹿島時代は2回)、さらにACLでも2度もアジアチャンピオンの栄光を手にしてきた。9年連続二桁ゴール、18年連続ゴールと数々の栄光と記録を更新し続けた。浦和が栄光を手にすることができたのは、エースストライカーの興梠選手の存在は大きかった。
「今シーズン限りで引退するよ。もういいでしょ?」と興梠選手に聞かされてはいたものの、スーツ姿で引退会見場に現れた姿を見ても、なかなか現役引退を受け止められなかったというよりは認めたくない気持ちが勝っていたのかもしれない。心のどこかで、もっとやれるはずだと思うし、もっとピッチで輝く興梠選手を見ていたいという願いがあったからだ。
できれば、Jリーグ優勝を決めて興梠選手がシャーレを掲げる雄姿を見たいし、得点王になってもらいたい思いもあった。だが、全力で闘い続けてきた興梠選手の身体は悲鳴を上げていたことは否めない。鹿島時代は、身体能力を生かしてゴールを狙い続けてきた。ペトロヴィッチ監督時代での浦和では味方を生かしながら連携してゴールを狙う献身性に磨きがかかっていった。名実ともに浦和のエース興梠だった。
だが、恩師の1人であるペトロヴィッチ監督の依頼を受けて札幌へとレンタル移籍し、再び浦和の戦士となった時に、浦和のエースの役割は変わっていたのだ。スタメンからは名前が外れ、ベンチスタートが多くなってしまった。ベンチ外の試合も増えてしまった。
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