磐田戦のスコア以上の完勝劇に20年前の同対戦を思い出し、ニンマリした【新連載・河野正の目】
埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを取材し、2007年からフリーランスとしてレッズを取材する、河野正氏による毎月連載のコラム「河野正の目」がスタートしました。(Report by 河野正)
浦和と磐田のトップチームが公式戦で初めて顔を合わせたのが、1993年9月11日のナビスコカップ第1戦だ。
当時ジャパン・フットボールリーグ(JFL)で戦っていた磐田には、まだドゥンガもスキラッチも、藤田俊哉も名波浩も加入していない。既に一員だった中山雅史は日本代表のワールドカップ米国大会アジア最終予選を控え、この試合には帯同していなかった。それでも浦和は0-4で完敗した。
浦和はここから磐田戦を迎えると腰が砕け、ほとほと旗色が悪くなった。とりわけ東海行脚は徒労に終わるのがお決まりのコースだった。
磐田がJリーグに昇格した94年から2003年の黄金期まで、リーグ戦の対戦成績は6勝1分け15敗と圧倒的に分が悪く、子ども扱いされた時期もあった。
03年4月12日、ジュビロ磐田スタジアムで行われた第1ステージ第3節というのは、これまで54度対戦したリーグ戦の中で、嫌と言うほど力の差を痛感させられた代表的な試合である。両者の水準には中学生と大学生くらいの開きがあり、0-1というスコアを見れば惜敗と誤解されそうだが、手も足も出ない完敗を喫したのだ。
内舘秀樹と鈴木啓太のボランチがパスを預かった瞬間、名波、福西崇史、服部年宏が獲物を狙うライオンのごとく襲い掛かった。マイボールになってもすぐに失い、縦への進出には腕に覚えのある山田暢久、平川忠亮の両サイドにさえ好展開できなかった。
永井雄一郎と田中達也がこの年、初めて2トップを組んだというのにたぐいまれなるドリブラーが、前を向いて進軍するための生きたボールも供給できなかった。放ったシュートは極めて可能性の低い2本だけ。後半は1本も打てなかった。
磐田は後半13分、藤田が右の西紀寛へボールを渡すと即座にゴール前へ走り出し、西の最終パスを蹴り込んで決勝点を挙げた。
主将の内舘はため息をついた。
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