宇賀神友弥選手ロングインタビュー(前編) 「引退しようかと悩んで、悩んでいる所に浦和からオファーがきた」(無料掲載)
2021シーズンを最後に12シーズン戦った浦和レッズを退団して、FC岐阜でプレーをしていた宇賀神友弥選手。今季、電撃的に浦和レッズに2シーズンぶりに復帰を果たした。レッズを離れないといけなくなった時の想いから、引退をしようと思っていた所からオファーがきた今季、浦和レッズに戻ってきた一年で成し遂げたいこと、ヘグモ監督のサッカーについて、自分がやるべき役割などについて語ってもらった。
(interview by 河合貴子)
――「お帰りなさい」というのはまだ早いですね。
それは自分でも言っていますので、ピッチに立った時にみんなに「おかえり」と言ってもらえればと思っています。
――つらい話から聞きますが、宇賀神選手の浦和レッズでの最後の試合を思い出すと、今でも目がウルウルしてしまいますが、あの当時を振り返ってもらえますか。
あの年齢まで浦和でプレーをすることが出来たので、浦和一筋で引退したいという気持ちが常にありました。あの年も全く試合に出ていなかったわけではないので、まさか、このタイミングでという気持ちと、浦和レッズでリーグ優勝することが出来ず、志半ばで浦和を退団しなければいけなかったのは、すごくつらかったですし、正直なんでだよ!という気持ちは正直、ありました。
――試合で結果も出して良い動きもしていた。ベテラン選手で若手のお手本にもなるチームにとっても大事な選手ではないかと思ったが、どうして出してしまうのかという思いがありました。
もちろんクラブとしても簡単に決断したわけではないと思いますし、クラブが次のステージに進むためには必要な決断だったんだと思っています。あの年は僕だけじゃなくて槙野と、阿部さんは引退という形でしたけど、サッカー選手の評価は実力でしかないと思うので、そういう決断を下されたことは、実力不足だったんだなと受け入れました。
――そこから浦和の退団が決まった時は、その先はどうしようと思っていたのでしょうか。
あのセレッソ戦のヒーローインタビューでも言いましたけど、とにかく「見返してやる」という、その思いしかなかったですね。あの試合は、そういう決断をしたということを後悔させてやる。失敗したと思わせてやるという気持ちでプレーをしたし、その気持ちがあのゴールに繋がったと思います。その後も自分が他チームでプレーをするとなった時に、とにかく浦和レッズと試合がしたいと思っていました。僕が活躍して浦和レッズを倒すんだという気持ちしかなかったですね。全然、落ち込んでいる時間はないと思ったし、これも自分にとって成長するチャンスだとポジティブな気持ちになりました。
――宇賀神選手の「努力に勝る天才なし」という座右の銘の想いが根底に流れている気持ちが出ていたんですね。
またそういう気持ちを蘇らせてもらいました。自分は常に良い時より悪い時にどういう振る舞いができて、どういうマインドを持てるかがその人の人間力だと思っているので、その一瞬はマジかと思いましたけど、次の日には切り替えていました。
――そこからFC岐阜に入る経緯はどういうものだったのでしょうか。
岐阜の社長が僕の中学、高校の同級生で、浦和レッズジュニアユース、ユースでも共にプレーをしていた同級生だった。実は彼が社長に就任する前から話を聞いていて、もしものタイミングがあれば、一緒に仕事がしたいと言ってもらっていました。実際に浦和の退団が決まった時に真っ先に連絡をしてくれた。ただ岐阜はカテゴリーもJ3でしたし、他のクラブからもお話を頂きました。実際はその2つのクラブで悩みました。色々な思いがあって、FC岐阜の可能性にかけたいと思いました。色々な話を聞いてポテンシャルのあるクラブだと感じましたし、カテゴリーは関係なく、このクラブ、この土地に掛けたいという思いがあって、FC岐阜を選びました。
――岐阜にはすでに盟友の柏木陽介選手がいたと思いますが、彼の存在も大きかったのではないでしょうか。
柏木陽介は僕の同級生で高校年代の頃からスーパースターでした。浦和レッズで一緒にプレーできるとなった時は本当に嬉しかった。そして一緒にプレーしている時間も楽しくて、プライベートでも気を許せる人だった。すべてにおいて一緒にいる時間が楽しかった選手の一人なので、その陽介と一緒にプレーできるという嬉しさもありましたし、一緒に岐阜でやらないか?と真っ先に連絡をしてくれた一人なので、また陽介と一緒にやれるんだというワクワク感もありましたし、僕が行くことで、より彼を輝かせることができるんじゃないかなという気持ちも岐阜を選んだ理由にありました。
――岐阜の試合を見ていても、二人で岐阜を盛り上げていくという責任の下にプレーをしているなと感じました。
カテゴリーを2つ落とすというのは正直、難しかったですね。1つはプレー面の所で、自分が12年間、浦和レッズで日本のトップでやってきたプレーを共有できないという難しさがありました。見てきた景色が違いすぎて、どうにか、それをチームメイトに見てもらいたい。同じ絵を描きたいと思って、もがいていました。それを頭ごなしにやるわけではなくて、一つ一つ丁寧にその世界を見せたいという気持ちで一緒にトレーニングをして試合をしてきましたけど、見たことない景色を共有するのはなかなか難しい。旅行でも同じだと思うんですけど、自分が見てきた景色をすごかったんだよ!と興奮して話しても、同じ景色は見られてないですし、写真で見ても伝わらない。その感覚と一緒なんだなとすごい思いました。でも、どうにか自分たちがその景色を見せてあげることができるんじゃないかと思って頑張りました。僕がいて、陽介がいて、田中順也がいて、その3人は同じ絵を描けていましたけど、その景色にみんなを連れていくことが一番苦労した所でもあります。
――宇賀神選手がレッズの試合を岐阜の選手たちを連れて見に来ていた所に、ばったり出くわしたこともあったが、岐阜の選手たちが目を輝かせて浦和の試合を見ていて、あの時の宇賀神選手が引率している姿を見て、すごいなと思いました。
その中でも向上心のある選手がたくさんいて、1プレー、1プレーで聞きに来るような選手は実際に上のチームに引き抜かれていったし、自分がプレーをしていても同じ絵を描きかけているなという選手は何人もいたので、そこは底上げが出来たんじゃないかという手応えもありました。
――そんなやりがいを持ちながら浦和の試合を見てどう感じていましたか。バッタリ会った時、レッズの試合を見て、あれは違うんじゃない?と言っていましたよね。あの時は何を感じていたのでしょうか。
浦和の試合は見られる試合は大体、見ていました。浦和レッズは攻撃的であるべきだと思っていたし、その魅力的な攻撃が去年は少し停滞していた一年だった。守備はすごかったし、チームとしての結果も外から見たらあの試合数で素晴らしい成績を残したと思いました。ただ、試合を見ていても面白い試合もあったけど、攻撃の部分でワクワクするシーンが少なかったので、これが本来の浦和レッズのあるべき形なのかなと思って見ていました。浦和レッズの選手はサッカーがみんな上手なんですよ。上手な人は攻撃が大好きなんです。ゴールを取ることが大好きだし、サッカー選手になりたいと思った根本は、たくさん子供の頃からゴールを取って、その喜びを知っている人たちで、そういう人たちの集まりだと思うので、攻撃的なサッカーをしなければならないんじゃないかなと思います。
――そう思っている所に浦和からオファーがやってきた
僕自身は岐阜の2年目のシーズンが終わって、2年契約をしていたので、それが終わって新しい契約をすると、岐阜からも話をもらっていたんですけど、岐阜で1年続けるか、正直、現役引退をするかを悩んでいました。
――引退をしようと考えていたのか?
むしろ引退しようと思っていました。まだ出来るという思いもありましたけど、この2年間、FC岐阜を昇格させるためだけに、全てをかけてきて結果8位でした。自分がこのピッチでFC岐阜の力になるより、外からの方が力になれると思いました。この2年間で何もすることが出来なかった。このチームを引き上げることが出来なかったという感覚が自分の中にあって、このチームをサッカー選手として勝たせることが出来ない。昇格させることが出来ないと正直、思っていました。
――外からというとコーチとして?
自分は強化部とか、ダイレクターの位置に立つのが夢なので、クラブを強化する所で自分なりのマネジメントでこのクラブを強くする。適材適所で選手を獲得して、監督を連れてくる。ユースを強くしたり、色々なクラブとの繋がり、街の一体感を作ったりすることで、このクラブを強くすることが出来るんじゃないかという気持ちがすごくあって、すごく悩みました。引退した後の僕の夢は、GM、ダイレクターになることなので、次の夢に進んでもいいんじゃないかなという気持ちは正直ありました。年末、岐阜には悩ませてもらいました。身体はすごく元気だし、昨シーズンも34試合でフル出場をしました。柏木陽介、田中順也にも相談したり、色々と悩んで、その共有できる二人が引退したのも大きかったですね。すごい悩んで、悩んで、どうしようかという時に浦和から話をもらいました。
(後編「宇賀神友弥選手ロングインタビュー(後編) 「心残りだった浦和レッズでリーグ優勝をすることを成し遂げる。そのために一年間のすべてを使いたい」に続く)