【無料公開】この街ー第9回『2003 国立霞ヶ丘陸上競技場』

恩師との別れ

 プロ2年目。オレの所属するチームは今の監督が率いて2季目のシーズンを迎えていた。

 監督は相変わらずうるさくて、特にオレは目をつけられているみたいで毎日のように説教されていた。監督はオレを左サイドで起用するが、元々オレは右利きだから左でのプレーがぎこちなかった。そもそも左足がほとんど使えなかったから縦に抜けても上手くクロスを上げられなくて、そのたびに「お前の左足はただの飾りか?」なんてイヤミを言われた。他にも味方が攻撃に移ったときに前のスペースが空いていたから喜び勇んで攻め上がったら「目の前に金でも落ちてんのか?」と詰問されたこともある。チャンスだったから攻め上がっただけなのに何故怒られるのか理解できなくてイライラしたけど、それでもオレを試合に使い続けてくれたから何とか我慢していた。

 ある試合で、激しい攻守転換の末に味方が相手ゴールへ攻め込むシーンがあった。そのとき、オレの脳裏に監督の言葉が浮かび上がった。

『金でも落ちてんのか?』。

 はやる気持ちを抑えてオーバーラップを自重してみた。その瞬間に味方選手がボールを奪われて相手のカウンターが始まり、後ろに残っていたオレが対応して難を逃れた。

 試合後、監督はオレにこう言った。

「あのシーン、お前が後ろに残っていたのはたまたまだろ?」

 確かにしっかり戦況を把握して攻撃を自重したわけじゃなかった。でも監督が言いたいことは分かった。攻撃をすべきとき。守備をすべきとき。その判断こそが勝敗の分かれ目になるのだと。これまでも頭を使ってプレーをしてきたつもりだった。でも、このオランダ人の指揮官の下でサッカーをしていると新たな境地が芽生えてくる。Jリーグ1stステージ、オレは全15試合に先発出場して、そのうち14試合はフル出場、そしてチームは7勝3分5敗で16チーム中6位だった。小言ばかり言われて辟易していた自分が確実に成長している。そう実感できたとき、オレもチームも、ある種の手応えを得たように思う。

 続くJリーグ2ndステージは第1節からの3試合を2勝1分でスタートダッシュしたが、第4節、第5節で連敗した。それでもチームに動揺はまったくなくて、第6節から第12節までの7試合を4勝3分の無敗で走って首位に躍り出た。リーグ戦でトップに立ったのは初めてだったけど、それでもオレたちは当然の結果だと受け止めていた。チーム力は他クラブに引けを取らなかったし、何より監督に鍛えられたオレたちには自信がみなぎっていた。監督が重視する『規律』を基盤に、選手たちは戦況を見極めて自らプレー判断できるようにもなっていた。監督のメソッドが浸透し、その理念が揺るぎないから各選手のプレーが適切に連動していった。

 去年の決勝で鹿島アントラーズに敗れたヤマザキナビスコカップも、リーグと同様に躍進していた。予選リーグを2位で乗り切って決勝トーナメントへ進出し、準々決勝でFC東京、準決勝で清水エスパルスを下して2年連続で決勝へ辿り着いた。”国立”で開催される決勝戦の相手は2年連続で鹿島になったが、成績が向上していたオレたちはクラブ史上初のタイトル制覇に向けて視界良好だった。イケイケというのとも違う。確固たるベースの下で、確固たる指針を掲げて戦っているオレらに勝るチームなどない。去年から着々と下地作りをしてきたチームは世代交代も進み、今ではヤマさん、ウチさん、イチさん、ナガイさんらの主力、エメ、ニキらの外国籍選手に加えて、オレ、ツボ、タツヤ、ケイタ、コウジ、ハセらの若手がレギュラーを担っている。一過性ではなく継続的なチーム強化が成されている確信は、何よりもオレたちのプレーを一層引き上げる動機付けになっていた。

 チームの誰もが輝ける未来に思いを馳せていたとき、監督が意外な言葉を口にした。

「オレは、今季限りでチームを去ることになった」

 最初は一身上の都合で辞めるのかと思った。でも、そうではないらしい。クラブは今季から代表取締役が代わり、新たな変革を進めようとしていた。その一環として、かつてチームでプレーしたレジェンドを新監督に据える計画があるという。ドイツ代表のメンバーの一員としてワールドカップで優勝した経験もあるそのレジェンドの存在によってクラブ全体の収益にも影響を及ぼすだろうという判断から、クラブは今季限りで現体制を打ち切り、新たな指揮官の下でシーズンを戦うことに決めたという。

 『ふさげんな!』と思った。せっかくチームとして手応えを感じ、個人的にも目に見える成長を実感して飛躍を期していたのに、なぜ現場を”壊され”なければならないのか。そう思っていたのは自分だけじゃなかった。普段は自分勝手で練習を遅刻することもあるエメが目に涙を溜めながら、「納得できない」と呟いたとき、誰かが「クラブに直談判しに行こう。監督を辞めさせないように直訴しに行こう」と言った。オレも同じ気持ちだったから勢いをつけて腰を上げた瞬間、ずっと黙って皆の意見を聞いていたロシア人のニキが急に言葉を発した。

「いや、それは駄目だ。オレはこれまでヨーロッパの各クラブでプレーしてきて、今回と同じような問題に直面したことがある。それでも結局何かが変わることはなかった。サッカークラブは、それぞれに役割を担った者たちの集合体だ。選手が成すべきことはピッチで戦うことで、それ以外にすべきことはないんだ。オレも監督が代わるのはとても寂しい。でも、それをオレたち選手が覆すことはできないんだ。それが組織というものなのだから」

 ニキの言葉を聞いた瞬間、皆ががっくりと項(うな)垂れたのが分かった。どんなに納得できなくても、選手が監督の人事に介入することはできない。身体が震えるくらい悔しかったけど、オレたちにできることは限られている。ならば、成すべきことはひとつしかない。直前に控える”国立”での決勝戦。それに絶対勝利して、オレたちの力を示してやる。『このチームは強いんだ!』と証明して見せる……。

 エメの2得点とコウジ、タツヤの得点で4-0。ナビスコの決勝ではあの鹿島を完膚なきまでに叩きのめした。主将のウチさんが壇上に上がって優勝カップを掲げている。その裏で、監督がマスコミに向けて今季限りでの退任を表明している。

 チームはナビスコカップ決勝直後のリーグ戦で勝利して以降は公式戦で勝ち星を挙げられず、結局2ndステージも6位に終わった。言い訳にしか過ぎないけど、監督の退任が正式に発表されて以降はチーム内に暗澹とした空気が流れていたとも思う。ただ、それでも選手たちは集中を保って戦い続けようとしたはずだし、オレ自身も何とか、このチームで最後まで結果を残そうと足掻いていた。

 ナビスコカップのタイトルを獲得できたことは嬉しかった。それと同時に、虚しかった。こんなに強いチームが無くなってしまう。もし来年もこのチームで戦えたら、オレたちはどこまで突き抜けられただろう。オレはどこまで成長できただろう。監督から説教ばかり食らっていたオレは、どこまでも子どもだった。“あの人”は常にオレを諭し、慈しみの心を抱いて、影で選手の成長に目を細めていたんだ。

 2003シーズン、リーグ戦全30試合に全て先発したのはキャプテンのウチさん、日本代表にも選出されたツボ、そしてオレの3人だけだった。

 ハンス・オフト。オレの人生を劇的に変えてくれた恩人。サッカー界におけるオレの”父親”。今でも、そしてこれからも、彼への感謝の念は尽きない。

■『この街』ー主な登場人物■

”オレ”ー1979年生まれ。静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。2002年に大学を卒業してJリーグクラブへ加入したプロサッカー選手。主なポジションは左右のサイドアタッカー、サイドバック。

“ハンス・オフト”

マリウス・ヨハン・オフト(Marius Johan Ooft)。1947年6月27日生まれ。オランダ・ロッテルダム出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本サッカーリーグ時代のヤマハ発動機やマツダSCでコーチを務め、オランダ・エールディビジのFCユトレヒトでマネージング・ディレクター職に就くなどした後、1992年に日本代表初となる外国人監督に就任して初のダイナスティカップ優勝、アジアカップ優勝を果たした。1993年のアメリカワールドカップ・アジア最終予選では日本史上初の本大会出場まで後一歩まで迫りながら、『ドーハの悲劇』と称される最終戦のイラク戦引き分けで出場を逃した。その後、94年にジュビロ磐田、98年に京都パープルサンガ監督を歴任し、2002年に浦和の監督に就任。クラブ史上初タイトルとなるヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)制覇を成し遂げた。

2002シーズン当時の浦和在籍選手

2002シーズンの浦和レッズはハンス・オフト監督主導の下、主力選手の刷新、チームの世代交代を進めた。文中の略称選手は以下の通り。ヤマさん(山田暢久)、ウチさん(内舘秀樹)、イチさん(室井市衛)、ナガイさん(永井雄一郎)エメ(エメルソン)、ニキ(ユーリ・ニキフォロフ)、ツボ(坪井慶介)、タツヤ(田中達也)、ケイタ(鈴木啓太)、コウジ(山瀬功治)、ハセ(長谷部誠)。

■街、モノ、場所の紹介■

国立霞ヶ丘陸上競技場

東京都の明治神宮外苑にあったスポーツ施設。1924年に青山練兵場跡地に建設された明治神宮外苑競技場が前身で、1964年の東京オリンピックにおける陸上競技のメイン会場、そしてサッカー競技の3位決定戦、決勝戦で使用され、その経緯から日本国内のサッカーの『聖地』として認識された。その後、長らく天皇杯、ヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)の決勝戦会場として使用され、2002年に浦和レッズが初めてナビスコカップで決勝に進出した対鹿島アントラーズ戦では、大会史上最多となる56,064人の大観衆で埋まった。2020年の東京オリンピック開催による新国立競技場建立計画によって、2014年5月に閉場となった。

 

 

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