【無料公開】日々雑感−選手コラム・梅崎司『想いを背負って走る』

共に歩んだ日々

 彼の自伝を買ったが、読むと泣いてしまいそうだから、まだ本を開けないでいる。10年の歳月を経て、親愛の念は募るばかり。彼の悩みや苦しみ、葛藤の日々、そして溢れる歓喜のときを知っているから、その姿を思い返すたびに感極まってしまう。

 2008年に浦和レッズへ移籍加入した時期は血気盛んな若者だった。自らの力でリーグの奪還とアジア連覇を公言したが、低迷するチームの中で自らの力を還元できずにもがき苦しんだ。

 2009年、新体制で臨んだチームの中でポジションを掴んだが、シーズン序盤に椎間板ヘルニアを患い手術を敢行。その後、復帰を果たしたが、シーズン終盤の練習中に右膝前十字靭帯損傷を負い、人生の転換期を迎えた。膝の手術を終えて3日後に病室を訪ねたら心底ふさぎ込んでいた。かけがえのない情熱の源をむしり取られる焦燥と寂寥は計り知れず、彼は看病のために寄り添っていた母親が発する言葉を上の空で聞いていた。長く険しい半年間のリハビリを経て復帰したら、今度は右膝の半月板を損傷した。「何故、自分だけがこんな苦労を背負うのか」とため息をついた彼の表情は暗くて重くて、言葉をかけることなんてできなかった。

 2011年、当時の指揮官から評価を得られずに出場機会が激減したが、チーム成績が低迷して指揮官が交代するとチャンスが到来した。日産スタジアムで彼が突き刺した左足のゴールが、J1残留を照らす道標になった。

「僕は雑草なんだから、誰かを追い抜くにはそれ以上の努力をしなきゃならない。腐ったら、そこでおしまいでしょ。僕はそれを、これまでのサッカー人生から学んできた。そして必ず報われるとも信じてきた」

 2012年、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督体制になっても、彼の状況は不安定だった。サイドアタッカー、シャドーと多岐に渡るタスクを与えられるも、純然たるレギュラーポジションを掴めない日々が続いた。ベンチ入りしたのに交代出場の声が掛からずに試合を終えたときは悔しくて悔しくて、埼玉スタジアムから大原グラウンドに戻って暗闇のピッチを走った。

 2016年8月31日。ノエビアスタジアム神戸のピッチで倒れ込んだ。今度は左膝の前十字靭帯を損傷した。でも苦難の歳月を経た彼は以前のように絶望の淵には立たず、どこまでも前向きに、明るい表情でケガの克服を目指した。

「2011年3月11日の東日本大震災で東北の方々が大変な被害を受けて苦しんでいる様子を、僕はテレビ越しに見ることしかできなかった。そのとき思ったんです。『俺の悩みなんて、本当に小さなことだよな』って」

 中学生の頃に粗暴な父親から「お前がプロになんてなれるわけがない」と罵倒されたとき、長崎から大分へ向かった彼は一心不乱にサッカーボールを蹴った。でも、それは己のためだけにしていたわけじゃない。働きに出る母親の背中と心細そうに佇む弟の顔を見て、『家族のために頑張る』と決めたあの日から、彼の信念は揺らがない。

「あの経験があったからこそ、今の自分がいる。『今の自分は、どんな人物?』と聞かれたら、『人の痛みを知れて、皆に支えられていることを実感できる人間』と答える。僕はたくさんケガをしたし、試合出場も限られたりと、順風満々なサッカー人生を送れていない。それでも僕は、自分を幸せな人間だと思っている。だって周りには、こんな僕をサポートしてくれる人がたくさんいるから。それは母親、弟、妻、ふたりの子どもだけじゃないですよ。師事した監督、お世話になったスタッフ、一緒に戦ってくれるチームメイト、そして何より僕に思いを託してくれるファン、サポーターの存在が僕の心を突き動かしている。2009年の右膝のケガのときは何人もの人が千羽鶴を折って病室に送ってくれたんですよ。でも、当時の僕はその恩義を感じ取ることができなかった。でも、今の僕は違う。去年(2016年)、左膝をケガしたときはファンやサポーターの方からツイッターやインスタグラムを経由して数え切れないほどの激励の言葉をもらった。数年前まではSNSなどが発達していなかったから、皆さんの言葉をダイレクトに受け取れる機会がなかなかなかったんだけど、今はそれができるでしょ。だから2009年の右膝のときとは比べものにならないほどに励まされた。それで、『みんな、本当にありがとう』って、心から思えた」

彼が走る意味

 2016年10月15日。浦和はYBCルヴァンカップ決勝でガンバ大阪を破ってクラブ史上10年ぶりに国内三大タイトルのひとつを掴んだ。彼自身も生涯で初のタイトルだった。ケガが癒えていなかった彼はスタンドで仲間の勇姿を見つめ、試合後の優勝セレモニーでピッチに降り立つと、仲間からカップを持たされて頭上の掲げろと促された。

 直後に彼の歴史を知るサポーターからチャントが沸き起こったとき、改めて感じたことがある。

「仲間とともに目標へ突き進む。こんな有意義なことって、なかなかないですよね。浦和レッズサポーターは僕の辿ってきた道のりも理解してくれた上で声援を送ってくれている。僕はそれを今、ひしひしと感じている。あのチャント……、実はね、僕、いつも、あのチャントを聞くと泣きそうになるんです。それでね、『絶対に頑張る! 絶対に勝つ!』と自らを奮い立たせている。僕はいつも、みんなの声援に支えられながらプレーしているんです」

 2017年12月27日。浦和から湘南ベルマーレへの完全移籍は苦渋の決断だった。今季は昨年負った左膝のリハビリから始まり、ペトロヴィッチ監督から堀孝史監督へと指揮権が移る中、またしてもチームに貢献を果たせない日々が続いた。ピッチに立たなければ皆の想いに報いることができない。彼にとって浦和は10年の時を過ごしたかけがえのないクラブで、慣れ親しんだ環境から離れるのは断腸の思いだったが、自らの存在意義を問うたとき、新天地での飛躍を期さねばならないと思った。

「浦和レッズを愛するみなさま、長年僕を応援してくれたみなさま、来季違う色のユニフォームを来てプレーすることになりました。浦和で10年選手となることができ、このまま大好きな浦和でずっとプレーしたい気持ちと環境を変えて勝負したい気持ちが混在していました。ありがたいことにレッズから最大限に評価してもらい延長オファーもいただきましたが、僕は一選手として、もっと成長したい、ピッチに立って躍動したい、その思いが日に日に強くなり、移籍を決断しました。

 本当にみなさんには感謝の言葉しか思いつきません。そして、ここまでプレーできたのは何度怪我を繰り返しても変わらぬ情熱でサポートし続けてくれた浦和レッズというチーム、ファン・サポーターのみなさんがいたからです。何度苦しい場面に陥っても帰りを待ってくれている人たちが、僕の走り回るプレーを見せてくれという人たちが、また積極的な梅らしいプレーを期待しているという人たちが、多くいたからです。どんなときも見捨てず、待っていてくれてありがとうございました。

 最後の最後にみんなとACLのトロフィーを掲げられたときはなんとも言い表せない感動がありました。でもそれ以上に怪我を乗り越え、みんなと喜び合えた1つひとつの瞬間が僕にとって宝物です。

 長くなりましたが、大きな決意を持って湘南でプレーします。埼スタに帰って来たときは大きなブーイングお願いします。そして、梅らしいプレーを見せます。10年間、本当にありがとうございました」(原文ママ)

 彼からメールが届いた。

「今は楽しみしかないですよ。成長できるイメージしかない」

 己のためではなく、誰かのために走っている。スタジアムでも、テレビでもいい。誰かが彼の姿を観て、その想いを投影すれば、それを受けて、梅崎司は、いつだってそれを背負って走ってくれる。情熱という名の炎が燃え上がり、観る者の魂をも焦がしてくれる。

その前途が、輝かしき日々になることを願う。

 彼の夢は、僕らの夢でもあるのだ。

 

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