浦研プラス独占! 田中達也選手インタビュー:自叙伝「特別な時間~すべてはサッカーのために~」発売記念

浦研プラス独占! 

田中達也選手インタビュー

(田中達也選手自叙伝「特別な時間~すべてはサッカーのために~」発売記念)

※自叙伝発売、購入などの詳細は、こちらをご参照ください。

インタビュー・文●島崎英純(浦研プラス)

Interview&Text by Hidezumi SHIMAZAKI

 

 

 

——田中達也選手が自叙伝を出版することになりました。

 

「はい。基本的には自分のサッカー人生を綴るんですが、高校時代くらいからですかね。それを自分の言葉で話していく。後は、福田(正博)さんやハセ(長谷部誠/フランクフルト/ドイツ)、ヤマさん(山田暢久/浦和レッズスカウト)など、僕と縁のある方に、田中達也について語って頂く企画もあります。これだけでも結構な量があるんですよね」

 

——自叙伝の内容は?

 

「不安(笑)。相変わらず硬い話になってしまっています(笑)。最初は帝京高校くらいからの話で、帝京の恩師の方の話も掲載されると思います。ただ、この自叙伝の骨子は、自分自身が田中達也について語っているイメージです。客観的に田中達也のことを自分で見ている感じ。僕は今年でプロ16年目ですけども、当時はこのような気持ちでプレーしていたけども、今考えると若いよねとか。もちろん以前と今では考え方や心持ちが違いますから、若い頃の自分を分析するのも面白いです。なんでこんな馬鹿なことをしていたんだろうとか(笑)。例えば、もっとプロになってから練習すれば良かったなぁと、今は思います」

 

——若い頃の田中選手も十分練習していたように感じましたけども。

 

「いや、もっともっとできたはず。例えばチームのトレーニングが1部練習だったとするではないですか。そこで勝手に自分だけで2部練習をしては駄目ですけども、うまくスタッフと話して調整できる余地もあったと思うんです。プロ初年度の頃の自分は試合に出られなかった立場で、他の試合に出場している選手とは環境も違ったはずなんです。だから、もっといろいろなことができたのではないかなぁと」

 

——指揮を執る監督によっても練習内容が変わりますから、その都度選手は順応しなければならないですよね。

 

「そうです。確かに自主練習を嫌がる監督の方もいらっしゃいますよね。その点は難しいですけども、例えばトレーニング以外に、しっかり身体のケアもしなければならなかった。身体のケアって、若い頃から取り組んでいて損はないと思うんですよね。僕の場合、他の選手に比べて身体のことは気にかけていたんですけども、浦和に居る頃は試合の2日前、土曜日に試合がある場合は木曜日にしっかりとチームスタッフに身体の状況を見てもらっていました。でも、もっと毎日できることもあった。大丈夫だと思って、すぐに家へ帰っていたこともありましたから。その結果、どうなっていたかは分からないですけどもね」

 

——あまり参考にならないかもしれませんが、元チームメイトだった山田暢久さんは30歳を過ぎるまでマッサージすら受けていませんでしたからね。

 

「はい。あの人はね、特別なんですよ。あんな人がいるから他の選手のペースが崩れちゃうんです(笑)。才能のある選手が周りにいると、いろいろ影響が大きい(笑)。そんなヤマさんも、32歳くらいからマッサージを始めたんですよね。僕がクラブハウスのマッサージ室に入って行くとヤマさんがいて、『あれ? ヤマさんがいる。珍しいですね』なんて言ったこともありますもん」

 

——その意味では、田中選手も年齢を重ねることで意識の変化があったのですね。

 

「そうですね。今回の自叙伝では、そんな以前の自分を、今の自分が振り返るような内容なんです。それを記録に残して、自分の家族にも見せたいですね。特に一番下の子はまだ1歳だから」

 

——去年、第三子が誕生したんですよね。

 

「はい。そうなんです」

 

——田中選手には長女、次女がいて、昨年待望の…。

 

「待望の男の子(笑)。でも、元気だったら男の子でも女の子でも良いです。まあ、でもこれまでは奥さんとふたりの女の子に囲まれていたので、肩身の狭い部分もありましたのでね、はい(笑)」

 

——田中選手は以前から、『子どもは多いほうがいい』とおっしゃっていましたから。

 

「はい。だからもうひとり…」

 

——まだ欲しいですか。

 

「恵まれるのであれば。チャンスがあれば。タイミングが合えば。大変ですけど、子どもは多いほうが、うるさいけど楽しい。僕、基本的に騒がしいのが好きなので(笑)」

 

 

——田中選手はなぜ、これだけサッカーに打ち込むようになったのでしょうか。

 

「小さな頃、兄貴がサッカーをプレーしていて、Jリーグが創設されて開始されたのが小学校4,5年の時だったんです。だからタイミングがばっちり合ったんですよね。1993年当時は福さん(福田正博氏)がバリバリでプレーしていて、レッズは弱かったですけど(笑)、それで俄然サッカーに興味を持ったんです。それが一番の動機かなぁ。周りの友だちも皆、サッカーをしていましたしね」

 

——田中選手の故郷である山口県でもサッカーは盛んでしたか?

 

「とても盛んでしたよ。皆がJリーグのキャップを被って。当時のサッカー少年はJリーグチームのキャップを被っていたでしょ。今の子は被らないかもしれないけども、僕の住んでいた山口県は広島県に近いので、子どもたちはサンフレッチェ広島の帽子を被って、Jリーグチップスを買って、Jリーグカードが入っているんですよね、あれ(笑)。僕はまさにその世代でした」

 

——当時の田中少年は、好きなクラブがあったのでしょうか。

 

「特にはなかったのですが、広島が近いので、一回だけサンフレッチェのビッグアーチへ試合を観に行ったことがあります。それほど遠くないといっても、車で2時間くらい掛かりましたけどね。でも、初めてJリーグを観て思ったのは、『サッカーはやっぱり、観るより自分でプレーしたほうが楽しいな』って(笑)スタジアムに行くまでの道程は楽しいんですけども、スタジアムに入って席に座ってしまうと、90分間じっとしているのが我慢できなくて、正直つまらなかったです(笑)。僕、そもそも落ち着きのない少年だったので、『早く帰ってボールを蹴りたいな』と思っていました」

 

——では、好きな選手などはいなかった?

 

「いえ、福さんは好きでしたよ。それにカズさん(三浦知良/横浜FC)、ラモス(瑠偉/岐阜監督)さんなども。当時はヴェルディ、マリノスが強い時代でしたものね。ただ、その中でも福さんは大好きで、日本代表で活躍する姿もずっと観ていました。足がめっちゃ速くて、皆が憧れていました」

 

——それでも、やはり田中選手の興味はサッカーを観ることよりもプレーすることに注がれていたんですね。

 

「はい。だから、一日中ボールを離さずに触っていました。だから結局、Jリーグの試合はその一回しか観に行っていないんです。山口なので、あまり頻繁に行けるものでもなかったですしね。その点では、今はレノファ山口もありますから、日本全国でJリーグを観られる機会は格段に増えていますよね」

——当時の田中少年は、自分がサッカーが上手いと認識していたのでしょうか?

 

「うーん、お山の大将ではありました(笑)とても小さな街で、『俺が一番だ』と思っていましたけども、そんな感じの子どもが同じチームにたくさんいたので、余計にライバル心が芽生えて、皆で競争していました」

 

——リフティングなどは早くからできたのでしょうか。

 

「上手い子は集中力が途切れなければずっと地面に落とさないでリフティングできましたね。僕も1000回くらいはできましたね。でも、周りの子も同じくらいできたので、自慢にはなりませんでした」

 

——中学校までは山口県の実家で暮らしていたんですよね。

 

「小学校、中学校と公立に通って、その学校の部活でプレーしていました。小学校はスポーツ少年団に所属していましたが、それも同じ小学校に通う子どもが所属して、その親御さんが監督やコーチなどを務めるクラブでしたね。中学校は学校のサッカー部で、それでも地域の小学校が3校くらい集まった中でチームが組まれていた、典型的な地域のサッカー部でした」

 

——その間、田中少年は順調に自信を深めていったんですね。

 

「いや、『俺、いけそう』というのはなかったんですけども、『俺が一番』という選手がたくさんいて、僕自身も小学校の時に市の選抜チームに入っていて、中学校では他の小学校からも上手い選手が集まるから、余計に対抗心が芽生えましたね。でも、チーム全体の成績も結構良かったんですよ。僕の入れ替わりの代が全国大会に出場したり、僕が1年生の時には中国大会に出場しました。ただ、中国地方は山口県よりも広島県の方がサッカーが強かったです。ただ、それでも僕が住んでいた周南市は山口県内でもサッカーが盛んで、それなりに強いチームだったんですよ」

 

——そして、田中少年は中学を卒業して東京へ向かうことになります。

 

「僕の友だちのお兄さんが帝京高校に進学していて、その友だちも帝京への入学が決まっていたんです。そこで、彼に帝京の試験のことやサッカー部の情報を聞いて、自分で飛び込んじゃった(笑)」

 

——帝京高校のサッカー部のセレクションを受けたんですよね。気後れはしなかったのですか。

 

「実際に行ったら、それほどでもなくて、普通にプレーできてしまったんです。でも、その時は何も言われず、卒業する前年度の12月にようやく合格の返事がきたんです。でも、帝京高校のサッカー部に入るまでは良かったんですけども、入ってからが大変でした。もう、まったくレベルが違ったんです、他の選手と僕とのサッカーの実力が……

 

——それでも、気持ちが萎えることはなかった…

 

「帝京高校に進学する時、山口を出るときに皆に見送ってもらったんですよ。皆は、僕をびっくりさせるためにそれを黙っていた。よくテレビのドラマである感じですよね。家から駅に向かう時に、近所の友だちの女子が同じバスに乗っているんです。でも、彼女は僕に話し掛けてこないから、『何をやっているんだろう』と、僕も黙っていた。それで駅に着いて構内に入ったら、皆が僕のことを待っていたんです。さっきの彼女は同じアパートで暮らしていたので、駅に行くには僕と同じバスに乗らなきゃ着けなかったんですね。だから彼女は僕に悟らせないように黙っていたんです。駅に降りて一旦彼女と分かれて駅の構内に入ったら、クラスメートが全員いた。そうやって皆に見送ってもらったこともあって、帝京高校に入って苦しい思いをしても簡単に山口へは帰れないなと思ったんです。見送りの時はまったく泣かなかったですよ(笑)。でも、すごく嬉しかった。それがあったから、挫折しても頑張れたのかなと思います」

 

——帝京高校で頑張ったのは、自分のためだけでもなかった。

 

「うーん、意地があったんでしょうね。僕の周りにもサッカー部を辞めていく選手がたくさんいました。でも、簡単に山口へ帰ったら恥ずかしいし、情けない。その思いのほうが強かったかもしれません」

 

——ただし、田中選手は努力する行為を苦労と思わない人物でもあります。

 

「努力することは全然苦ではないです。それが自分の唯一の長所だとも思っています。身体面や技術面ではなくて、こつこつ頑張る。それが僕の特長なのかな。僕、結構物事を楽観的に考えてしまうんです。普通の人だったら困難だと思うことも、『やってみたら超えられるんじゃないか』と思ったりする。それがいいのかな(笑)。あと、その場から逃げるのが嫌なんですね。どこかで劣等感もあるから、人よりも努力しなきゃと思う面もあるかもしれない。その意味では、プロサッカー選手になる人物はプロになるまでも、なってからも自信を兼ね備えている方もいますけども、僕の場合は早々に劣等感を覚えていた。ただ、僕が育った環境が帝京高校だったというのはもちろん影響が大きいです。当時、友だちから帝京高校の試験のことを聞いて、自分で飛び込んだ勇気もあったのかもしれない。何も考えてなかったと思うけど(笑)。でも結局、身体ひとつで東京へ向かってしまったわけですから」

 

——15歳で親元を離れる不安はなかったのでしょうか。

 

「まったくなかったです。でも、帝京高校に受からなかったら、近くの高校へ進学していたかな」

 

——ということは、帝京高校へ行くことになったから親元を離れたのですね。

 

「はい。でも寂しさはなかったですね。不安よりも期待のほうが大きかった。でも結局15歳で親元を離れてからは、両親と一緒に暮らしていないんですよね。今、自分は3児の父だから、『それは寂しいな』と思います」

 

——田中選手は親不孝なのかもしれない。

 

「本当に。だから今は両親にも、もっと元気な姿を見せなきゃなと思っています。それは自分が人の親になってから初めて気づくことでもあるんですね」

 

——当時の田中選手のご両親は、息子の東京行きに際してどんな意見をお持ちだったのでしょうか。

 

「とても反対されました。それはもう、本当に。でも、それは当然だとも思います。今、父親である自分が、子どもが中学卒業を機に家を出るなんて言ったら猛烈に反対しますもん(笑)。僕の家庭は兄貴が僕の3つ年上で、僕が高校に入るときに兄貴も大学へ入学するタイミングだったんです。だから両親の金銭面の負担は甚大だったはずです。しかも僕が進学しようとしていたのは東京の私立高校で、サッカー部に入ると様々な経費も掛かる。それもあって両親は反対したのかなぁ。でも、結局僕の気持ちを受け入れてくれて、両親は理解してくれました」

 

——ご両親にとっては金銭的な問題もありますが、それ以上に、子どもと別れることの寂しさを感じていたのではないでしょうか。

 

「たぶんそうですね。だって今の僕もそうですもん。だから、いろいろな面で迷惑を掛けたなと思います。でも当時中学生だった自分は、そんな親の気持ちなんてまったく分からなかった。『なんで反対するの?』って、むしろ怒っていた。でも、子どもには親の気持ちが分からないんですよね。高校で寮生活をして、『寮費を送ってくれ』とか、『サッカー部で遠征するからお金を送ってくれ』とか、何万円ものお金を要求するんです。両親がそのお金を稼ぐのにどれだけ苦労しているのかをまったく理解していない。『ちょっと送ってよ』なんて言うんです、僕(笑)。それは今になっていろいろ分かって、それで、当時の気持などを今回の自叙伝では綴っています。こうだったなって。あっ、宣伝になりましたね、今(笑)」

 

この後のインタビューの続きは主に浦和レッズ時代について!。ぜひ『浦研プラス』の有料コンテンツにてお楽しみください!

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